野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第三章 一1 禅の思想家・鈴木大拙氏の生い立ち― 貞太郎が大拙となるまで②

 今日の内容は鈴木大拙の思春期時代を振り返ります。鈴木大拙は「学校を卒業したことがない」と言っていますが、思春期から青年期にかけては生家の貧しさや兄弟たちが生活のために学業を断念するなど、近代化が急激に進む時代にあって、非常に困難な状況にあったようです。

 本当に、こういう境遇にある人がアメリカに行くチャンスを掴むということ自体、奇跡のように思えます。また周囲の大人たちが、名もなく貧しい大拙に惜しみない援助をすることにも驚かされます。むしろ現代の方が鈴木大拙のような人物を輩出するのは難しいのかもしれませんね。それでは今回の内容に入ります。

1 禅の思想家・鈴木大拙氏の生い立ち― 貞太郎が大拙となるまで

② 思春期に宗教心が芽生え、禅と出会う

 父の死後、貧しいながらに成長した貞太郎は、1887(明治20)年2月、石川県専門学校(後の四高)初等中学科を卒業すると、同年9月、第四高等中学校(後の金沢大学)予科三年に編入学しました。ここで、生涯の友となる西田幾多郎氏と出会います。

 翌1888(明治21)年9月、第四高等中学校本科一年に入学しますが、間もなく、学費が支払えず中途退学しました。

 それで、翌1889(明治22)年、珠洲蛸島で小学校校長を務めていた長兄元太郎を頼り、貞太郎は満18歳で英語教師の助手として、蛸島近くの飯田小学校高等科に採用されました。

(明治初期の石川県専門学校では、教科書は全て英語で書かれていたことで、英語を習得していた。さらに、英語教師を務めながらのこの当時の研鑽が、大拙氏の「禅仏教を語る英語力」の基礎を築いた)

 その頃、貞太郎は宗教や哲学に心が向き始め、檀那寺(信徒が所属する寺)であった瑞光寺(臨済宗)の和尚に「禅とはどういうものか」を聞きに行ったのですが、「碧巌録」というものがあると教えてくれたものの、その和尚はその本を読んだことがなく、何も分からなかったとのことです。

 大拙氏は「自叙傳」で、当時の禅僧について「何のために和尚になっておるのか、どうして和尚になったのか、何もわからんというような坊さんが多かったようだ…。そのころの田舎の坊さんの無学文盲なことは、あきれかえるほどであったね、けれども信仰心はあったな」と振り返っています。

 1890(明治23)年5月には、貞太郎(満19歳)は現在の教育法令でいう「教諭」と同等の「訓導」(尋常小学校などの正規教員)に昇格し、飯田町から石川郡美川町(美川小学校高等科)に移ります。しかしこの年の4月、母が亡くなりました。

 貞太郎はこの年、富山県高岡市国泰寺(臨済宗)の雪門玄松禅師(註)に参禅しています(国泰寺は廃仏毀釈で一時荒廃したが、山岡鉄舟の援助を得て、再建の機運を迎えた)。

(註)雪門玄松(せつもん げんしょう)

 明治期を代表する臨済宗の僧で、西田幾多郎は長く参禅し、居士号「寸心」を授けられた。伝記に水上勉著『破鞋 雪門玄松の生涯』がある。

 四高を中退し小学校教師になったこと、母の亡くなったことも貞太郎にとって不運なことでした。禅がこれを救ってくれるであろうか、瑞光寺で手応えを得られなかった貞太郎に、再度発心(註)を促したようです。

 当時金沢では、東大在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川師に参禅した、四高教師・北條時敬(ときゆき)が雪門禅師を招き坐禅会を行っており、参禅が知識人や若者の間で関心事になっていました。

(註)発心(ほっしん)

 発(ほつ)菩提心(ぼだいしん)。菩提心は「悟りに向う精神の場」を意味する。一般的な経典では道心ともいわれ,仏陀の境地を求めて仏道を行じようとする心のことで,生来、誰でも持っていて,しかも最も尊い宗教心のことである。発菩提心とはその心を起すこと。

 貞太郎は何の予備知識も紹介状もなく参禅し、雪門師に難しい禅語(白隠の書)の意味を質問した際、「文字の意味がどうのこうのと聞くより、坐禅をしておれ」と叱られました。

 そして「それからまた部屋に行って坐禅したが、…何をどうするのか、どうも手のつけようもなし、…雲水の坊さんだって何も教えてはくれないし、…うっちゃらかしにして、説明というか、禅宗はどうしてこうしてというようなことも何も教えてくれない」と述べ、その時は四、五日程で帰ってしまったそうです。

(全集の自叙傳で「叱られたのは当然だ」と、大拙氏は述べているが、ここに、近代禅 ―思想が付与された ― の必要性(「禅とは何か」を説明する)の始まりがあったと考えられる)