野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第三章 三5 仏教東漸と、初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた釈宗演師③

 先週は予告なくお休みしてしまい申し訳ありませんでした。今回は5③からです。今日の内容にはラッセル夫人という女性が出てきますが、Googleで検索してもあまり情報が出てきません。以前は少しあったのですが減ったような気がします…。英語のサイトだったらもっと情報が出てくるかと思います。何しろビートやヒッピーよりずっと早く日本に来て禅修行をしたのですから。 

 ユング心理学(分析心理学)や神智学など、戦前に始まった西洋文明やキリスト教文明、近代科学に対する疑問、東洋に関心を持つなどの新しいムーブメントに参加するのは女性が先駆けとなることが多かったようです。それでは今回の内容に入ります。

 私は今回の記事の中に出てくる釈宗演の引用文がとても好きで、日本仏教の在り方にも良い面はあるのですが、この中にある仏陀の教えをもっと今の人に伝えていく必要があると思います。

ラッセル夫人の招きによる宗演師アメリカ初の禅指導

 1902(明治35)年、宗演師の坐禅指導を求め、アレキサンダーラッセル夫人(サンフランシスコ在住)が来日しました。彼女は鎌倉円覚寺での参禅の後、キリスト教から仏教に改宗し禅者となるという本格的な取り組みを行いました。

 当時は、西洋諸国においても急速に科学文明が進んでおり、今後それがどこまで進んでいくか誰にも分からないという時代でした。同時に、この文明のために学者も国家も互いに競争し、忙殺されており、社会の中も、雇い主と雇われ人など立場の違いによって、権利や義務などと言うことを口々に唱えては対立するようになったのです。

 釈宗演師は当時の人々について「利益を得るとか、幸福を得るということが人々の目的であるはずなのに、その目的のために、かえって目的に反し、常に追い駆けられ、苦しめられて、闇から闇に飛び込んでしまうというような状態ではないだろうかと思う。」(『明治の国際派禅僧、アメリカに行く』釈宗演・鈴木貞太郎、三、満足と安楽)と述べています。

 そして、宗教が学問を支配する時代が近代とともに終わり、キリスト教国には仏教が入り、仏教国にはキリスト教が入り、研究することができる時代になりました。西洋の人々の中は、このような時代を生きる上で、心の中に逃げ場所をどうにかこしらえたい、その目的に適った宗教が、キリスト教以上の宗教があるのではと、求められるようになっていったのです。

 ラッセル婦人一行もこのように考え、坐禅に行き当たった人々でした。釈師は同著で次のように述べています。

四、坐禅に限る

ラッセルは高等教育を受けていて、中以上の財産を有する、日本で言えば豪商とでも言われるような、別に不足はない身分であった。不足のない身分ではあったが、競争の中に立っていて、この中で惑乱されない心の安寧を得なければならないと思ったに違いない。ラッセルだけではない。ほかの人もそうであった。

…仏様の教え方は、ただ神や仏をつかまえてきて、「わたしを幸福にして下さい」、「私の罪を消し去って下さい」と、迫るように責めるように祈れというのではない。清らかな心の状態を維持していなさい、換言すれば心の統一を保っていなさいということである。

釈迦自身がその手本を示した。釈迦は…仏や神に向かってある種の祈祷をしたことは一遍もないと伝記に書かれている。どんなことが心の清らかな状態であるのか、心の静かな状態であるのかを探求し、換言すれば、六年間坐禅しておられた。そして暁の明星を見て、それが真に清らかな状態である、わが心はあたかも明星のごとく清らかな状態である、また心そのものが清浄の極まった状態であるということを自覚されたのである。

 その後宗演師は、ラッセル婦人の招きに応じて1905年6月に再度渡米し、滞米中の鈴木大拙氏を伴いアメリカ各地で講演し接化(禅指導)を行いました。

 これがアメリカで参禅が行なわれた最初となり、宗演師は日本人の僧として、初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師となりました。

 この時、宗演師のワシントン大学での講演、そしてセオドア・ルーズベルト大統領との会談も行なわれました(大拙氏の通訳による)。