第三部 第三章 一1 禅の思想家・鈴木大拙氏の生い立ち― 貞太郎が大拙となるまで③
③ 父の死後、近代日本に不適応な兄たちの人生と自身の将来― 母の死後、故郷金沢を離れて上京する
母が亡くなって九ヶ月後の1891(明治24)年1月、貞太郎(満20歳)は家を売り払って借金を返し、金沢を離れます。一時、神戸にいた次兄の亨太郎を頼りましたが、この年5月に上京しました。
上京は、生活を立てるための実学(実際に世の中に役立つ学問)を学ぶのが目的で、亨太郎の紹介で本郷駒込西片町の旧加賀藩の学生寮・久徴館に落ち着きました。
6月からは英語をさらに勉強するつもりで、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学しました。ところが、教師の坪内逍遥の英語が貞太郎には不満でした。
(この年の六月には前年四高を中退した親友・西田幾多郎が上京し、下旬に東京帝国大学哲学科選科の入学試験を受け合格した。選科の学生は、正規の大学生ではなく、修了しても大学卒とはならない)。
その当時の家庭状況と二人の兄たちの進路について、大拙氏は次のように回想しています(自叙傳の原文は旧字体・旧仮名)。
…明治二十四年に小学校の先生をやめて東京に出たわけだが、東京に出る気になったのは、この前年に母が亡くなり、勉強をもっとやってみたいと考えたからである。…東京に出るについては兄貴の世話になったのだが、わしの家庭の話をちよっとすると、父親は前にもいったように早く死んだし、家は銀行が破産してやって行けなくなったりして、大分困った。
(西南戦争の影響で銀行が破産した時代のこと)
長兄元太郎は医師になることを志し、そのための勉強をしていたのですが、父が亡くなってから「医者になるのがいやになった」と師範学校に入りました。しかし、家がだんだん困窮してきたために、田舎で小学校の先生になりました。
二番目の兄亨太郎は、法律を勉強し弁護士になることを志し東京に出ました。しかし司法省の法律学校の試験に落第し、その上、家に学費がないので、もう一度試験を受け直すこともなく、書生をしながら弁護士になろうとしていたのです。
その頃、次兄は法律に関する薄い本を出版したことがあり、「大したものだ」と貞太郎は当時思ったそうです。
父は教育に関心が深く、子供の教育のために衛生読本と修身読本という本を二冊書き、子供に読んで聞かせ、母にも講義をしていたとのことで、近代的な学問や政治にも関心を持っていた人でした。大拙氏は父の与えた影響と兄の心について次のように述べています。
(五九九頁)
…子供の時の教育というものがよほど影響すると見えて、後来自分が本を書こうというようなことになったのも、あの時の一種の影響だね、それがあったものだと思っておる。そういうふうで、自分の兄貴もやはり父親が本を書いているように本を書きたかったのだろう。
けれども、その兄貴はこの後、こういう本を書くような境遇に恵まれないで、自分の口すぎ(生計を立てる)ということに汲々とし、そうして神戸へ来て、それから執達吏…の試験に及第して、借金をする者を責めて金を取り立てる(差し押さえをする)という役になったんだ。
(次兄は七十歳で司法試験を受け弁護士になるが、その後すぐに亡くなった)
貞太郎は幼くして父や兄(三男)と、そして、若くして母とも別れ、また兄たちが苦労して生きる姿を通じて、人間の「生と死」に向き合って来ていました。貞太郎は自身の不安や迷いを超え、いかに志を持って生きるかという「道」を求めていたことと思われます。
後に大拙氏は、禅の目的について「人の心の底にある可能性を、素直に表に出させるのが禅なんです。人はふだん、自分の可能性を抑えつけているんです。だからいつもイライラしている。自分で自分を苦しめている。禅を知れば、人は自分の力を十分に発揮出来る」と述べています(長尾剛『30ポイントで読み解く「禅の思想」』)。