野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

日本の近代化と野口整体―気の思想と目的論的生命観 9

 

 

 私は以前(2010年位)、金井先生の著書の企画書用に次の文章を作ったことがありました。これは、ブログのために推敲したものですが、これまでのまとめとして紹介します。

 

  現代では、感情の不安定、主体性のなさ、心の共感能力が弱く他者と関係性がもてない、自分が何を感じているのか分からない、心が成長するとはどういうことかが分からない、といった心の問題を持つ人が増えています。

 このような問題の深層には、重心が上がったままである状態が慢性化しているという問題があります。

 個人指導の場においても、指導を求めているのですが、「整った身体」という自身の捉え方が薄く、「やってもらったら良かった」というだけで、その後、自身で「構え」を身につける、という身体感覚の学習がないのです。これはひとえに「肚」というものを知らない、ということです。

 養老氏の文章(わが二十世紀人―三島由紀夫)にあったように、大正時代に修養が教養となって、日本人の知性は「身体性」と離れたものになっていきました。ここで日本人は、自身が立ち戻る地点としての「身体の中心」を失ったのです。

野口整体とは何か」を定義するとすれば、「人間の「自然」を保つことであり、それに必要な中心を中心ならしめる法である」ということができます。

 日本人の重心が上がって行った「近代」において、野口整体が始まった理由もそこにあるのです。

 

では、金井先生の内容に入ります。

 

(金井)

 師野口晴哉は1935年(昭和10年)、医術と疾病について次のように述べています(『野口晴哉著作全集 第一巻』)。

医の道

 医学や医術の進歩というのは、病名が多くなり病院が濫設され病人が増えることに過ぎない。生命への小細工が伝統的に今日の医術を作り上げたので、ただそれが科学という仮面を被って横行闊歩してゐる現象にほかならぬのだ。

 人間は本来、医術なしに暮らせるよう導かるべきだ。医術は本来、疾病現象に対する恐怖心を出発点として、この苦痛から何とか遁れようとの消極的な考え方から発生したものなのだ。

 ところが、疾病というものは身体の調和 ─ 健康を維持してゆく為の生命の合目的作用に依存して起るもので、眼の中に塵埃が入ると涙が出て流してしまうとか、鼻の穴に何か飛込むと嚔(くしゃみ)をして噴き出してしまうとか、そういう現象と同じようなものである。

 あらゆる外界の無理な条件に適応せんとする過程、又は体内の老廃物を排出しようとする生命のはたらきなのだ。

 蝉が殻を脱いだり、蛇が一と皮脱いだり、又私らが夏、海岸へ行くとヒリヒリして赤くなり、やがて黒くなるように、健康へ健康へと向上して行くところの生命の発展─それが疾病だ。

 私は、東京オリンピック(1964年)直後の1967年という、敗戦後から続く科学至上主義の時代に野口整体の世界に入りました。それは西洋医学全盛の時代でした。

 当時、野口整体の指導を行なっている人は「医者には行かない」「薬は飲まない」という断固たる意思を、西洋医学に対抗する気持ちで強く持っていたものです。

これは、野口整体が発祥する契機となった「江戸時代までの医療(気の医学)から近代 医学一元化へ」という背景と大いに関わっていました。

 明治政府は、科学力を背景にした当時の欧米列強の植民地主義に対抗すべく、強行に欧化政策を推し進め、その一環として伝統医療を否定し、西洋近代医学(ドイツ医学)のみを国家の認める正当な医療と定めました(明治七年の医制発布)。

 そして、明治維新(1868年)そのものが、科学の発展による資本主義と強大な軍事力を背景にした、植民地主義という世界状勢に迫られたものでした。それは、清(当時の中国)がイギリスの植民地になった直後の時代です。

 その結果として、機械論的生命観への急激なシフトが行なわれたのです。西洋列強による日本の植民地化を恐れるあまりの、維新以来の急激な近代化が、日本人に大きな影響を与えたのが、明治・大正・昭和という時代でした。

 このようにして、日本人の心身は明治維新を境に、大きく変化しました。身体の重心は、明治時代中期までの「腰・腹」から、大正時代には胸へ、昭和には頭へと上って行ったのです。

 重心が胸に上がった大正時代には肺結核が猛威をふるいました。身体上における近代化とは、「身体の重心が押し上げられること」でした。このような時代に、師野口晴哉は「西洋近代医学に代替する智」を思想として掲げ、起ち上がったのです。

 医療の近代医学一元化において、古来よりの日本的生命観「気の思想」が、近代科学に一気に駆逐されようとしたのであり、このこと一事において、西洋文明による文化的植民地化というものです。

 科学の世界においては、目に見えないものは「対象外」ですから、「気」も「心」も含まれていないのです。

 

近代化が人間に与えた影響と東洋的身体―気の思想と目的論的生命観 8

 心理的中心と重力的中心の一致

 金井先生は以前、人間の中心について、野口整体の観点から、次のように説いたことがあります(近藤による編集)。

 

「心の中心」とは、身体感覚的中心のことで、この二つの「中心」が一つであることを古来より「心身一如」と呼び慣わして来ました。それは重力的中心に「心」が坐ることであり、これを「体の重心が決まっている」と感じてきたということです。

 重力的中心とは「体の構造としての中心」ということであり、身体感覚的中心とは「心身の機能的中心」を意味しています。本来の位置ではないところに「中心」を感じるとき、心身は不安定となり、自分の中心が丹田にあるとき、心と身の機能を最大限発揮することができます。

 重力的中心が身体感覚として捉えられる。重力的中心と身体感覚的中心を一致させて「身、心」を使っていくことが、肚の文化ということなのです。

 本来、重力的中心が丹田にあるのに、みぞおちが硬くなってしまったときには、身体感覚的中心が、みぞおちに行ってしまい、歩く時、みぞおちで歩いているように感じてとても具合が悪いものです。

 ひどい時には首に中心があるような感覚にもなってしまう。自然の仕組みとしては、中心は下腹にあり、上に行けば自然の状態から離れる。それが自然の摂理なのです。

 ここに戻ることができれば健全であり、「自然の健康」なのです。そしてより根源的な生命力であり、理にかなった生き方、「裡なる神仏」というものと一体になる、とは、この状態にあるということです。

 

上巻で、金井先生はデュルクハイム(心理療法家)の『肚 ― 人間の重心』解題を引用し、次のように述べています(カッコ内は金井先生)。

(金井)

…日本滞在は1937年から47年までの十年に及ぶが、デュルクハイムにとっては革命的な意味をもつ年月であったと言えよう。日本人の生活に関心を持ち、

特に日本人の心の持ち方に興味を抱いた。そして西洋人の心を蝕んでいる心身二元論に橋渡しをする心の持ち方をその中から得ようとした。

特に禅仏教の研究を通して、坐禅キリスト教の伝統の中で生きる西洋人にも意義深いことを発見し、1948年以降マリア・ヒッピウス博士(デュルクハイム夫人)と共に、西独のシュヴァルツ・ヴァルト(黒い森)に開設したトットモース・リュッテ実存心理学的教育センターの治療法の一つとした。

 坐禅と並ぶもう一つの治療法は、これがデュルクハイム独特のものなのであるが、彼が研究と体験からあみだした「身体療法(ライプテラピー)」である。

この分野では、人間が所有している「肉体(ケルパー)」と、それこそが人間そのものである「身体(ライプ)」とが区別して取り扱われている(註)。

…ここで言う肉体とは、直接、医学に関わるもの、病気とか、痛みとか、死に関係すること、したがって健康とかスポーツの能力等にも関係すること(=客観(近代)的身体)であるが、身体とは、人間の行動や身振り全体の中にあるもの、表現し、提示し、実現したり、し損なったりするものである。

身体は私そのもの(=主体的身体)であるから、身体を与えられている私が、身体の中の「本質(Wesen)」に対して透明(無心)になるとき、私は異常のない状態となる。したがって、「身体療法」とはマッサージではない。

自分の態度が間違っていることに気付くこと、正しい態度を見いだすこと、正しい姿勢を見いだすことである。この正しい姿勢をとり、不動の姿勢で坐り、無念無想となって、すなわち根本から無になって、「本質」と出会う用意をする修行が坐禅である。

(註)ドイツ語のケルパー・ライプは、ともに体を意味するが、ケルパーは「物」としての体を意味し、ライプは主体的「身体」を意味する。

 右の文中で、デュルクハイムが「肉体(ケルパー)と身体(ライプ)」と用いているのは、私が用いる「肉体と身体」という言葉の使い方と同様と思います。

 日本の伝統的身体(「腰・肚」による身体)では、人間の中心は丹田にありました。西洋近代での人間の中心は、「理性」のはたらきをする大脳皮質のある「頭」で、その持ち物が肉体です。

 洋の東西を問わず、中心とは「魂」のことで、「魂が肚にあるか、頭にあるか」という違いが、東西の身体(心身)観の相違なのです。そして、これが本書における「近代科学と東洋宗教」という対比となりました。

 西洋では、人間の中心(魂)は「頭・理性」にあり、近代科学は、理性によって自身の体を対象化し、客体として捉える「心身二元論」に基づいています。

 東洋では、人間の中心(魂)は「肚・丹田」にあり、東洋宗教は、気を通して、体と心の一元性(身体性)を探求する「身心一元論」に基づいています。

 心身二元論では人間の意識が理性に偏って発達することで、自身の感情が自覚できない(=意識で捉えられない)ものとなるのです。

 この無意識化された感情(のエネルギー)が自身を支配する(=自我の主体性を奪う・コンプレックス)という問題点に対して、身心一元性を探求する方法が必要となることから、デュルクハイムは日本の道・「肚」を持ち帰ったと、捉えています。

身体の重心位置と抵抗力―気の思想と目的論的生命観 7

 近代化と日本人の重心位置の変化

 以前、『「気」の身心一元論』の読書会をしていた時に「人間の中心」について説明する機会があり、「自分はどこにあると思うか」を参加者の皆さんに質問したことがあります。その時は「胸」と「頭」という答えだけで、「丹田(下腹)」と答えた人はいませんでした。

 整体である時の中心は「丹田(下腹)」であり、整体操法は「心の中心(身体感覚的な中心)と、身体の重力的中心を一致させること」を目的としている、と金井先生から教わりました。しかし現代では、その状態を日常としている人はごく少ない、と言って良いでしょう。

 今回はこの中心(重心)が近代化によって上がったことで、日本人の生きる力が低下した、という内容です。 

(金井)

 立川昭二氏は、明治以来の近代化に伴う「時代の病」の変遷について、次のように述べています(『病気の社会史』)。

歴史の「進歩」と病気

…「病気は文明なり社会なりによってつくられ」、「病像(びょうぞう)は時代によって移り変わり」、「疾病にも歴史的法則があり」、「病因が歴史的分析によって説かれうる場合がある」 ―― といった考え方が、どうやら見当違いでなかったことを、おおよそ学び取ることができた。

…ひとつの悪疫(悪性の流行病)が消えると、かならずべつの悪疫が創(つく)られる。その絶えまない繰り返しを、歴史はいやというほど見せつけてくれた。

伝染病には文明抵抗性ともいうべきものがあり、文明度のレベルに応じて、それは消化器から呼吸器へ、さらにポリオなどのように脳へと次第に下から上へと押し上げられていった。

結核コレラは文明国から地上の別の地域に追われたが、そこで今日なおこれまで以上の惨禍を繰り返している。そして文明国では、ガンや心臓病、それに精神病・公害病が、悪疫の奢りをほしいままにしている。

 立川氏は「…次第に下から上へと押し上げられていった。」と表現していますが、この近代化の推移と重心位置の変化について、師野口晴哉は次のように述べています(『月刊全生』一九七五年)。

野口先生へ質問「心と体は一つ」

 体の中心は腰椎の二番と三番の間からお臍の下、一寸の処にかけての線にかかる処に中心があります。そこに、きちんと力を入れていれば、心も体もきちんとします。

…そこで昔から、下腹に力を入れて動作する、下腹に力を入れて技術を修めるというように「万事、吾が腹に有り」と、お腹の力を大事にしました。それが大正時代では「万事胸に有り」そして「万事頭に有り」になり、今はへんに浮いてしまって「万事どこかに有り」になっておりますけれども、中心にあるのが本当です。

 右の文章の「万事胸に有り」というのは、大正時代に肺結核が蔓延していたということと一致しています。

 そして「万事頭に有り」から、さらに上に上がったというのが、師が観た一九七〇年前後の日本人の姿(こうも頭で生きる人が多くなってしまった)であり、これが神経や精神の問題となって表面化しているのが現代なのです。このように重心の問題が病気の変遷とひとつなのです。 

 日本の伝統的な「道」を支えていた身体性が「型」であり、その中心には「肚」がありました。これを身につけていた人においては、重要なことは「肚で考える」というものでした。

 このように日本人が「肚」を意識していた時代は抵抗力があり、精神力も強いものがありましたが、「型」が失われ、頭でだけ考えるようになり、重心が頭に上がってしまったのです。大正教養主義は、その象徴でした(修養は身体性であり、教養は理性)。

「下腹に力を入れて技術を修める」と言っても、そのような経験がなければ分かりにくいことかもしれませんが、下腹に力が入る時ここに気が定まり、落ち着いた心のはたらき(集中力の発揮)により、技術を身につけることができるのです。

 樹木がそうですが、根がしっかり張っていれば、大風が吹いても幹は動かず、倒れることは滅多にないものです。

  重心が丹田から上に上がるほどに、気を定めることができず、それで心が動きすぎ(動揺し)てしまうのです。このような心の動揺と免疫力の関係は、細菌や病症に対する「抵抗力の低下」となって現れます。

 この「抵抗力」というものが重要である理由は、人間関係や社会の変化に対する「適応力」ともなるからです。抵抗力とは踏んばることができることで、それには肝心なところ(「腰・肚」)に力が入ることなのです。

 

(補)野口整体の原点にある「抵抗力の発揮」―2009年春期公開講座教材『科学と宗教』より

(金井)

野口晴哉先生は、昭和元年頃(当時一五歳)道場を開きました。その数年後、「健康と心の関係」について次のように述べています。

(註)『野口晴哉著作全集 第一巻』(養生編 昭和5~6年)より。原文は旧仮名遣い

 

全生論

 全生について

 全生――生を全うするの道を示すものである。

・・・生を全うするの道は健体を創造し彊心(きょうしん)を保持して、之を活用することである。

 

疾病と全生

・・・予は全生道を主張し、以て之を自覚せしめ、以て病苦をこの世から去らしめんとするものである。

 病を理解せよ、理解は確信を生じ、確信は安心を生む。病の恐るべきに非ざることをはっきりと自覚せよ。然らば病苦、汝を去りて再び近寄ることなし。安心の前には苦悩なし。

 誤りたる医学医術が、昭和の時代に横行し、国民の病苦煩悩をいやが上にも深めつつある。之真に憂うべきことである。

 乞う諸君よ、力を併せて全生道を普及し、国民の病苦を去らしめようではないか。病恐るべしと盲信し、恐病の念に駆られている現代人の心胸から、病恐るべきに非ずという自覚と信念とを喚び起そうではないか。

・・・恐怖憂慮による精神委縮ほど、抵抗作用を衰退せしめるものはない。

 然らば結核恐るべきか、恐怖恐るべきか。余りに恐怖し悲観したから、自然治癒しなかったのである。之は結核恐るべし不治の病也と教えた医学の罪か、之を盲信したる世人の罪か、何れにしても甚だ面白からざることではないか。

 コレラにしても、赤痢にしても同じことで、恐れるから伝染するのではあるまいか、所謂、発病せぬ保菌者のあるのは如何なる訳か、傷口から黴菌が入り、生水を飲めばチブスになると云うが、果たして然るか、抵抗作用が不足するから、罹病するのではあるまいか。

 然らば病菌恐ろしさに行ふ所謂消毒なるものも、果してどれほどの効果があるであろうか。その大部分は「消毒したから」という心の信の功に過ぎぬのではあるまいか。

・・・医家諸君よ、病菌研究は一、二の篤志家に委せて、之を廃止せられては如何、貴下等の研究が如何に多くの人の苦悩を深め、精神的に如何に多くの人を殺したるかを悟られよ。 

 病菌恐るべしと宣伝することを止めて、人体には抵抗作用具わるといふことを以て、之に代えたなら、罹病者の数は半減するであらう。而して抵抗作用を旺盛ならしめる工夫をして頂きたい。

空中地上、到る処に充満している病菌を完全に防衛するには、抵抗力を旺盛ならしむるの他に途はない。之医界の緊急事項である。

 予防に薬、治療に薬、クスリ、クスリと、薬物を万能視して毫も身体の抵抗力を重んじない、その結果は廃動萎縮の原理によりて、体力は日に日に衰退に傾く。

 万病は抵抗力の不足によりて罹(かか)り、抵抗力の充実によりて自然治癒する。万病は一因より生ず。

 

近代化に対する不適応と病理―気の思想と目的論的生命観 6

近代化と日本人の身心

 私が中学・高校生当時の授業では、近代史はアウトラインをなぞるような教え方をすることが多く、当時の日本人が近代化過程にどのように適応していったのかなどは教えられることはなかったように思います。

 しかし、近代化というものが日本人に与えた影響は甚大で、現代につながる身心の問題は、ここから端を発しているのです。この近代化の大本に近代科学があります。

 今回紹介する、医療史家の立川昭二氏の著書『病気の社会史』は、現在岩波書店の文庫となっています。立川氏にお会いした時、この『病気の社会史』には野口晴哉師に通ずる視点があると思う、とお話したら、非常に関心を持たれ、喜ばれていました。

 では今回の内容に入ります。

(金井)

ここからは、「日本の近代化」を身体の変化を通じて考えてみましょう。中巻(『野口整体ユング心理学 心療整体』第二章)で紹介した医療史家の立川昭二氏は、近代化が伝染病の蔓延とともに始まったこと、そしてその後の近代化過程における精神疾患の急増について、次のように述べています(『病気の社会史』NHKブックス)。

明治維新コレラ

 日本近代の朝はコレラの洗礼とともに明けた。コレラだけではない。痘瘡・赤痢・腸チフス・ペストなど急性伝染病が、文明開化の潮に乗り、大波となって日本を呑みつくした。

・・・なかでも最大の強敵はコレラ――。…明治四四年間のコレラによる総死者数は三十七万余、これは日清・日露の大戦争の死者総数(約十六万人)をはるかに上回る。

 これまで鎖国と封建の惰眠をむさぼっていた日本は、明治維新を迎え、内外から大きく揺さぶられる。人やものが激しく移動し、新しい産業の波が人々の生活を変えていく。うち続く内戦と対外出兵、荒廃していく農村、貧民の蝟集(いしゅう・多く寄り集まること)する都市。

それに文明開化とはいえ、環境衛生といえば江戸時代そのまま、上下水道もほとんどなく、電灯がつき汽車が動いても、飲み水は黴菌だらけ、し尿は垂れ流し――。伝染病がこの明治日本にまん延しない道理はない。まず消化器系伝染病が無人の野を行くがごとく暴れまわる。とりわけ、世界の近代化の波に乗って世界旅行を繰り返しているコレラが、なりふりかまわず近代化を急ぐ日本を、絶好の餌食にしないはずがない。

社会病としての精神病

明治維新が日本人の経験したまれにみる急激な社会変革であったことは論を待たない。この急激な変革は、生活様式の急変、倫理・価値観の急転、生存競争の激化をともない、教育の過重・生活難の増大がすすむ。当然そこには精神的動揺・不安が醸成される。

あるいは農村から都市に流入し、あるいは士族から賃金労働者に転じた、これら生活の急変を強いられた無数の人々が、新しい様式・体系に接触していくなかで、精神的葛藤を増大させていく。

旧来の生活習慣と階級秩序の崩壊は、あらゆる伝統的価値を崩壊させていくとともに、そこにあった社会的防衛機構をも同時に崩壊させていく。

ここに、激変する社会から脱落していくもの、新しい社会に適応できないもの、彼らが精神的動揺・不安・葛藤(コンフリクト)・欲求(フラスト)不満(レーション)をエスカレートしていく過程で、精神病者として現在化してくることは、おそらく疑えない現象であったろう。

   明治、大正、昭和という激動の時代における社会不安、植民地化されることに対する怖れ、これに抗する帝国主義化といったものが人々の心を不安定にしていたことは、結核その他の伝染病のまん延を許す素地となっていたと考えられます。

結核」については、明治後半から昭和二十年代までの長い間、「国民病」と恐れられており、当時は、年間死亡者数も十数万人に及び、死亡原因の第一位でした。それは日本が近代化と帝国主義化を推し進めていた時期と重なります。

 そのような時代に適応し、乗り越えていくためにも、明治後期から昭和初期にかけて、坐・呼吸法に代表される、東洋的・土着的伝統を踏まえた身体技法、健康法・治療法・修養法(新渡戸稲造の沈思黙考など)が注目されるようになりました。

 このような時代の要請を経て、新しい健康法・修養法として野口整体は生まれたのです。

「人間の自然」を損なった身体の近代化―気の思想と目的論的生命観 5

身体の近代化と重心位置の変化

 引き続き、下巻第七章の内容ですが、ここからは下巻の内容に上巻の内容を交えながら進めたいと思います。

 中心となるのは、人間の身心に近代化がどのような影響を与えたか、ということです。西洋の文化基盤から生じた近代文明ですが、金田文明の原動力となった近代科学のもつ性質により、西洋人の心と体にも深刻な影響を与えました。

 こうした問題意識が、野口整体の思想と行法にも生きている・・・という金井先生の文章から説き起こすことにしましょう。

 

(金井)

 野口整体の思想と行法が存在する目的は「人間の自然を保つ」ことにあります。

 整体とは体が自然(じねん)な状態で、自然とは本来の力を発揮できることです。そして、人間の「自然」とは中心が在ることであり、私は中心を「腰・肚」におく伝統的な日本の身体文化に着目してきました。

 

 太平洋戦争前後の日本に滞在したドイツ人の心理療法家デュルクハイム(註)は、当時の日本人の生活と心の持ち方に興味を抱き、熱心に参禅し、弓道を習練し、茶道など日本の伝統文化を悉(ことごと)く学び体得するに到りました。

(註)デュルクハイム(1896~1988年)

太平洋戦争前後の1937年に来日し、一旦帰国した後に1940年から1947年まで日本に滞在した。

  そして、彼はこれらの伝統文化に通底する「鍵(かぎ)」は、「肚」であることを突き止め、帰国後、坐禅と岡田式静坐法を応用した身体療法施設(トットモース・リュッテ実存心理学的教育センター)を開きました。

 彼は哲学の伝統を持つ西洋人であるが故、外側から日本文化を眺め、そこに通底する原理を捉えることができたのです。

 デュルクハイムは太平洋戦争(一九四一年~)直前の、小学生にまで及んだ近代的軍事教練のあり方について、次のように述べています(『肚』第一章)。

1 ことのはじめに

「胸を張って、腹をひいて……こうした文句が国民一般の指導原則となることとなった国民は、いま危機の中にあります」と、一九三八年(昭和十三年)、ある日本人が私に言った。それは、私の日本滞在の最初のころのことであった。当時、私にはこの言葉の意味が分からなかったが、今日、私は彼が正しかったことが分かり、その理由がなんであるかも知っている。

「胸を張って、腹をひいて」というのは、人間の姿勢の基本的な間違いを指摘した最も短い言葉である。詳しく言えば、それは、内面の姿勢の正しくないことを教えている身体の姿勢をさした言葉である。なぜか。人間は少し背を丸めるか、うつむきかげんになるか、しゃがみ込んでしまうかしたらよいのだろうか。そうではない、真っすぐに立つのである。しかし「胸を張って、腹をひいて」は、自然の姿勢から外れた姿勢を取らせる。重心が「上に向かって」移り、中心が切り離されるところでは、人間を膠着現象と崩落現象の間の相互交替に追い込む不均衡(人間を膠着と崩落という両極に陥らせるアンバランス)によって、緊張と弛緩の自然な関係も取り除かれてしまう。

…もともと身体に備わったものとして維持されている生命秩序を証明する中心(丹田)を、みずから否定するとき、人間は根本的に自分を支えている生命秩序に対して矛盾を暴露することになる。

   このようにデュルクハイムは、生命秩序を維持するための「人間の重心」として、本来の中心「丹田」が把握されることの重要性を記しています。

 しかし、この時代から七十年以上を経た現代では、日本人が「肚」を忘れているのです。

 明治時代中頃までは「腹」にあった日本人の中心は、大正時代には「胸」に上がり、戦後の高度経済成長時代(一九五四~七三年)を経て、「頭」へと上がって行きました。

 明治以来の富国強兵策による軍事的(ドイツ式)身体訓練は、「胸を張って腹を引き、膝の裏(膕(ひかがみ))を伸ばす」ことを強要しました(江戸時代までの日本人の姿勢は、腰に帯をし膝の裏を弛めて立っていた)。

 現在でも「良い姿勢」というと背筋を伸ばすために「胸を張る」人が多いのはこのためです。この姿勢では重心は胸に上り、日本人は「腰・肚」を忘れて行ったのです。

 この「身体の重心」が、「本来の中心」から大きくずれていることが、現代における日本人の心や体の問題なのです。

 怒りや不安という感情が起き、「気」が上がり、重心が上がると、本来の「中心」に重心がある状態とは大いに異なってしまいます。この時、「心」が思うようにならず、「体」も思うように働いてくれません。

 このように、本来の状態との違いは「気の状態」にあり、心と身体が統一されているためには、「気のありよう(重心の位置)」が重要なのです。しかし、現代では、中心が体感されることが極めて希薄となっているのです。

 

目的論を知って「修行」を理解する―気の思想と目的論的生命観 4

修行は無意識を啓くためにある

 鈴木大拙の内容に入る際、ダライ・ラマ法王のことについて少し触れましたが、法王は各派に共通する仏教の基本的な考えについて述べる際、次の偈(仏典の中の詩句)を引用していました。 

仏陀たちは有情がなした不徳を水で洗い流すことはできない

その手で有情の苦しみを取り除くこともできない

自ら得た理解を他者に与えることもできない

ただ、真如という真理を示すことによって有情を救済されている

つまり、自らの努力によって、自分の心と感情をよりよく変容させることが鍵となるのである。

 こうした仏教的な考え方が、修行の基本的考え方ともなっているのです。

 ユングが東洋宗教に関心を持った理由について、金井先生は下巻で次のように述べています。

(金井) 

 彼(ユング)が東洋に関心を持ったのは、東洋宗教では当然のこととされている、個人に内在する神性(仏性)を目覚めさせるという伝統が、なぜ西洋の宗教的伝統にはないのか(一部にはあったが異端とされることが多かった)ということでした。

 ユングは、西洋が東洋に学ぶべきことについて、次のように述べています(『東洋的瞑想の心理学』ユング/湯浅泰雄訳 創元社)。

現代における東西の出会いにいかに対処すべきか

われわれがほんとうに東洋から何かを学んだといい得るのは、「たましい」はそれ自身の中に十分に豊かなものを蔵しているものであって、外からは何も取り入れたりする必要はない、ということを自覚する時である。

そして、神聖な恩寵があろうがなかろうが、われわれは、われわれ自身の中から自分の力を発揮させてゆくことができるということを自覚するときに、私たちは、東洋から真に学んだと言えるであろう。

…われわれは、外からではなく、是非とも内から、東洋的な諸価値へと至る必要があるのであって、われわれはそれらをわれわれ自身の内に、すなわち無意識の内部に探らなければならないのである。

  ユングはこの視点から、キリスト教と西洋近代文明について考え、反省を深めて行ったのです。

 

では、今回の内容に入ります。

(金井)

 東洋の諸宗教の伝統には修行、それは身体行があります。

 日本では、古代に仏教が伝わって以後、修行の方法が様々に発達し伝えられて来ました。世界的となった禅の修行、山岳信仰と結びついた修験道比叡山の回峯行などがありますが、このような仏教の修行法は、日本の様々な芸道や武道の発展に大きな影響を与えました。

 これら修行という言葉には、身体の訓練を通じて、人間としての精神・心を鍛錬する、という意味合いが備わっています。人間の精神を磨き、人格を向上させるための「身体行」が修行であり、「精神と身体は一体不可分のもの」と捉えられています。

 修行とは、身体の諸能力を訓練することを通じて、自分の中から新しい精神の働き、あるいは「新しい自己」を目覚めさせることであり、人間の持つ可能性を「生涯かけて探究するという生き方」なのです。

 ところが、こういう考え方は、年配の日本人(2017年現在、一般的に七十代以上)にとっては理解できるものですが、若い人にとっては容易に理解されないものとなっています。

 それは現代の日本が、西洋近代文明の影響を大きく受けているからに他なりません。

 とりわけ敗戦後の日本では、戦後民主主義教育の下、伝統文化(道)が切り捨てられ、高度工業化社会を目指すための科学的教育に偏ったという事情がありました。

 科学の基盤には、十七世紀西洋において確立した「心身二元論」があり、これを因(もと)として科学的知性(理性)が発達することは、日本の伝統的な「身体性」が理解できないものとなっていくのです(心身二元論では心は理性であり、科学は理性至上主義ですから、科学的教育は意識が理性に偏る。二元論では体は物)。

 伝統的な「身体性」とは「主体性」を育むためのものでした。科学文明下、近代西洋医学による機械論的生命観が蔓延する時代に、野口整体を身に付けようとする人が、「行法(活元運動など)」を行う上で必要なのは、その「思想」を理解し、自分が生きるという「主体性」を育むことです。

 この主体性を育む生活が損なわれ、それを養う教育も大きく見失われているのが、現代という時代です。

 科学の発展(近代合理主義哲学の浸透)により機械論的生命観が常識化され、「理性」という意識の発達した現代では、無意識のはたらきを先ず意識で理解することが必要で、これが、私が訴えたい「目的論」です。

 それは、「生命の目的とか意味や価値について問うことは科学の任務ではない」からです。

 東洋宗教の修行とは、「身体性」を高めることによって、無意識にある智慧を開くことを目的としたものであったのです(意識されない目的論的生命観が「修行」の背景にあった)。

 1960年代半ばまでは残っていた、この「修行」という日本人の死生観・伝統的宗教観を、東アジアの東端にある日本という地域性からのみでなく、「目的論 ― すべての現象は何らかの目的のために存在する、という考え方」という言葉を通して、世界的な視野から考えて頂くことを期待し、本書下巻を科学の知・禅の智シリーズ「近代科学と東洋宗教」の括りとしたいと思います。