野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

「人間の自然」を損なった身体の近代化―気の思想と目的論的生命観 5

身体の近代化と重心位置の変化

 引き続き、下巻第七章の内容ですが、ここからは下巻の内容に上巻の内容を交えながら進めたいと思います。

 中心となるのは、人間の身心に近代化がどのような影響を与えたか、ということです。西洋の文化基盤から生じた近代文明ですが、金田文明の原動力となった近代科学のもつ性質により、西洋人の心と体にも深刻な影響を与えました。

 こうした問題意識が、野口整体の思想と行法にも生きている・・・という金井先生の文章から説き起こすことにしましょう。

 

(金井)

 野口整体の思想と行法が存在する目的は「人間の自然を保つ」ことにあります。

 整体とは体が自然(じねん)な状態で、自然とは本来の力を発揮できることです。そして、人間の「自然」とは中心が在ることであり、私は中心を「腰・肚」におく伝統的な日本の身体文化に着目してきました。

 

 太平洋戦争前後の日本に滞在したドイツ人の心理療法家デュルクハイム(註)は、当時の日本人の生活と心の持ち方に興味を抱き、熱心に参禅し、弓道を習練し、茶道など日本の伝統文化を悉(ことごと)く学び体得するに到りました。

(註)デュルクハイム(1896~1988年)

太平洋戦争前後の1937年に来日し、一旦帰国した後に1940年から1947年まで日本に滞在した。

  そして、彼はこれらの伝統文化に通底する「鍵(かぎ)」は、「肚」であることを突き止め、帰国後、坐禅と岡田式静坐法を応用した身体療法施設(トットモース・リュッテ実存心理学的教育センター)を開きました。

 彼は哲学の伝統を持つ西洋人であるが故、外側から日本文化を眺め、そこに通底する原理を捉えることができたのです。

 デュルクハイムは太平洋戦争(一九四一年~)直前の、小学生にまで及んだ近代的軍事教練のあり方について、次のように述べています(『肚』第一章)。

1 ことのはじめに

「胸を張って、腹をひいて……こうした文句が国民一般の指導原則となることとなった国民は、いま危機の中にあります」と、一九三八年(昭和十三年)、ある日本人が私に言った。それは、私の日本滞在の最初のころのことであった。当時、私にはこの言葉の意味が分からなかったが、今日、私は彼が正しかったことが分かり、その理由がなんであるかも知っている。

「胸を張って、腹をひいて」というのは、人間の姿勢の基本的な間違いを指摘した最も短い言葉である。詳しく言えば、それは、内面の姿勢の正しくないことを教えている身体の姿勢をさした言葉である。なぜか。人間は少し背を丸めるか、うつむきかげんになるか、しゃがみ込んでしまうかしたらよいのだろうか。そうではない、真っすぐに立つのである。しかし「胸を張って、腹をひいて」は、自然の姿勢から外れた姿勢を取らせる。重心が「上に向かって」移り、中心が切り離されるところでは、人間を膠着現象と崩落現象の間の相互交替に追い込む不均衡(人間を膠着と崩落という両極に陥らせるアンバランス)によって、緊張と弛緩の自然な関係も取り除かれてしまう。

…もともと身体に備わったものとして維持されている生命秩序を証明する中心(丹田)を、みずから否定するとき、人間は根本的に自分を支えている生命秩序に対して矛盾を暴露することになる。

   このようにデュルクハイムは、生命秩序を維持するための「人間の重心」として、本来の中心「丹田」が把握されることの重要性を記しています。

 しかし、この時代から七十年以上を経た現代では、日本人が「肚」を忘れているのです。

 明治時代中頃までは「腹」にあった日本人の中心は、大正時代には「胸」に上がり、戦後の高度経済成長時代(一九五四~七三年)を経て、「頭」へと上がって行きました。

 明治以来の富国強兵策による軍事的(ドイツ式)身体訓練は、「胸を張って腹を引き、膝の裏(膕(ひかがみ))を伸ばす」ことを強要しました(江戸時代までの日本人の姿勢は、腰に帯をし膝の裏を弛めて立っていた)。

 現在でも「良い姿勢」というと背筋を伸ばすために「胸を張る」人が多いのはこのためです。この姿勢では重心は胸に上り、日本人は「腰・肚」を忘れて行ったのです。

 この「身体の重心」が、「本来の中心」から大きくずれていることが、現代における日本人の心や体の問題なのです。

 怒りや不安という感情が起き、「気」が上がり、重心が上がると、本来の「中心」に重心がある状態とは大いに異なってしまいます。この時、「心」が思うようにならず、「体」も思うように働いてくれません。

 このように、本来の状態との違いは「気の状態」にあり、心と身体が統一されているためには、「気のありよう(重心の位置)」が重要なのです。しかし、現代では、中心が体感されることが極めて希薄となっているのです。