野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

目的論を知って「修行」を理解する―気の思想と目的論的生命観 4

修行は無意識を啓くためにある

 鈴木大拙の内容に入る際、ダライ・ラマ法王のことについて少し触れましたが、法王は各派に共通する仏教の基本的な考えについて述べる際、次の偈(仏典の中の詩句)を引用していました。 

仏陀たちは有情がなした不徳を水で洗い流すことはできない

その手で有情の苦しみを取り除くこともできない

自ら得た理解を他者に与えることもできない

ただ、真如という真理を示すことによって有情を救済されている

つまり、自らの努力によって、自分の心と感情をよりよく変容させることが鍵となるのである。

 こうした仏教的な考え方が、修行の基本的考え方ともなっているのです。

 ユングが東洋宗教に関心を持った理由について、金井先生は下巻で次のように述べています。

(金井) 

 彼(ユング)が東洋に関心を持ったのは、東洋宗教では当然のこととされている、個人に内在する神性(仏性)を目覚めさせるという伝統が、なぜ西洋の宗教的伝統にはないのか(一部にはあったが異端とされることが多かった)ということでした。

 ユングは、西洋が東洋に学ぶべきことについて、次のように述べています(『東洋的瞑想の心理学』ユング/湯浅泰雄訳 創元社)。

現代における東西の出会いにいかに対処すべきか

われわれがほんとうに東洋から何かを学んだといい得るのは、「たましい」はそれ自身の中に十分に豊かなものを蔵しているものであって、外からは何も取り入れたりする必要はない、ということを自覚する時である。

そして、神聖な恩寵があろうがなかろうが、われわれは、われわれ自身の中から自分の力を発揮させてゆくことができるということを自覚するときに、私たちは、東洋から真に学んだと言えるであろう。

…われわれは、外からではなく、是非とも内から、東洋的な諸価値へと至る必要があるのであって、われわれはそれらをわれわれ自身の内に、すなわち無意識の内部に探らなければならないのである。

  ユングはこの視点から、キリスト教と西洋近代文明について考え、反省を深めて行ったのです。

 

では、今回の内容に入ります。

(金井)

 東洋の諸宗教の伝統には修行、それは身体行があります。

 日本では、古代に仏教が伝わって以後、修行の方法が様々に発達し伝えられて来ました。世界的となった禅の修行、山岳信仰と結びついた修験道比叡山の回峯行などがありますが、このような仏教の修行法は、日本の様々な芸道や武道の発展に大きな影響を与えました。

 これら修行という言葉には、身体の訓練を通じて、人間としての精神・心を鍛錬する、という意味合いが備わっています。人間の精神を磨き、人格を向上させるための「身体行」が修行であり、「精神と身体は一体不可分のもの」と捉えられています。

 修行とは、身体の諸能力を訓練することを通じて、自分の中から新しい精神の働き、あるいは「新しい自己」を目覚めさせることであり、人間の持つ可能性を「生涯かけて探究するという生き方」なのです。

 ところが、こういう考え方は、年配の日本人(2017年現在、一般的に七十代以上)にとっては理解できるものですが、若い人にとっては容易に理解されないものとなっています。

 それは現代の日本が、西洋近代文明の影響を大きく受けているからに他なりません。

 とりわけ敗戦後の日本では、戦後民主主義教育の下、伝統文化(道)が切り捨てられ、高度工業化社会を目指すための科学的教育に偏ったという事情がありました。

 科学の基盤には、十七世紀西洋において確立した「心身二元論」があり、これを因(もと)として科学的知性(理性)が発達することは、日本の伝統的な「身体性」が理解できないものとなっていくのです(心身二元論では心は理性であり、科学は理性至上主義ですから、科学的教育は意識が理性に偏る。二元論では体は物)。

 伝統的な「身体性」とは「主体性」を育むためのものでした。科学文明下、近代西洋医学による機械論的生命観が蔓延する時代に、野口整体を身に付けようとする人が、「行法(活元運動など)」を行う上で必要なのは、その「思想」を理解し、自分が生きるという「主体性」を育むことです。

 この主体性を育む生活が損なわれ、それを養う教育も大きく見失われているのが、現代という時代です。

 科学の発展(近代合理主義哲学の浸透)により機械論的生命観が常識化され、「理性」という意識の発達した現代では、無意識のはたらきを先ず意識で理解することが必要で、これが、私が訴えたい「目的論」です。

 それは、「生命の目的とか意味や価値について問うことは科学の任務ではない」からです。

 東洋宗教の修行とは、「身体性」を高めることによって、無意識にある智慧を開くことを目的としたものであったのです(意識されない目的論的生命観が「修行」の背景にあった)。

 1960年代半ばまでは残っていた、この「修行」という日本人の死生観・伝統的宗教観を、東アジアの東端にある日本という地域性からのみでなく、「目的論 ― すべての現象は何らかの目的のために存在する、という考え方」という言葉を通して、世界的な視野から考えて頂くことを期待し、本書下巻を科学の知・禅の智シリーズ「近代科学と東洋宗教」の括りとしたいと思います。