野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

日本の近代化と野口整体―気の思想と目的論的生命観 9

 

 

 私は以前(2010年位)、金井先生の著書の企画書用に次の文章を作ったことがありました。これは、ブログのために推敲したものですが、これまでのまとめとして紹介します。

 

  現代では、感情の不安定、主体性のなさ、心の共感能力が弱く他者と関係性がもてない、自分が何を感じているのか分からない、心が成長するとはどういうことかが分からない、といった心の問題を持つ人が増えています。

 このような問題の深層には、重心が上がったままである状態が慢性化しているという問題があります。

 個人指導の場においても、指導を求めているのですが、「整った身体」という自身の捉え方が薄く、「やってもらったら良かった」というだけで、その後、自身で「構え」を身につける、という身体感覚の学習がないのです。これはひとえに「肚」というものを知らない、ということです。

 養老氏の文章(わが二十世紀人―三島由紀夫)にあったように、大正時代に修養が教養となって、日本人の知性は「身体性」と離れたものになっていきました。ここで日本人は、自身が立ち戻る地点としての「身体の中心」を失ったのです。

野口整体とは何か」を定義するとすれば、「人間の「自然」を保つことであり、それに必要な中心を中心ならしめる法である」ということができます。

 日本人の重心が上がって行った「近代」において、野口整体が始まった理由もそこにあるのです。

 

では、金井先生の内容に入ります。

 

(金井)

 師野口晴哉は1935年(昭和10年)、医術と疾病について次のように述べています(『野口晴哉著作全集 第一巻』)。

医の道

 医学や医術の進歩というのは、病名が多くなり病院が濫設され病人が増えることに過ぎない。生命への小細工が伝統的に今日の医術を作り上げたので、ただそれが科学という仮面を被って横行闊歩してゐる現象にほかならぬのだ。

 人間は本来、医術なしに暮らせるよう導かるべきだ。医術は本来、疾病現象に対する恐怖心を出発点として、この苦痛から何とか遁れようとの消極的な考え方から発生したものなのだ。

 ところが、疾病というものは身体の調和 ─ 健康を維持してゆく為の生命の合目的作用に依存して起るもので、眼の中に塵埃が入ると涙が出て流してしまうとか、鼻の穴に何か飛込むと嚔(くしゃみ)をして噴き出してしまうとか、そういう現象と同じようなものである。

 あらゆる外界の無理な条件に適応せんとする過程、又は体内の老廃物を排出しようとする生命のはたらきなのだ。

 蝉が殻を脱いだり、蛇が一と皮脱いだり、又私らが夏、海岸へ行くとヒリヒリして赤くなり、やがて黒くなるように、健康へ健康へと向上して行くところの生命の発展─それが疾病だ。

 私は、東京オリンピック(1964年)直後の1967年という、敗戦後から続く科学至上主義の時代に野口整体の世界に入りました。それは西洋医学全盛の時代でした。

 当時、野口整体の指導を行なっている人は「医者には行かない」「薬は飲まない」という断固たる意思を、西洋医学に対抗する気持ちで強く持っていたものです。

これは、野口整体が発祥する契機となった「江戸時代までの医療(気の医学)から近代 医学一元化へ」という背景と大いに関わっていました。

 明治政府は、科学力を背景にした当時の欧米列強の植民地主義に対抗すべく、強行に欧化政策を推し進め、その一環として伝統医療を否定し、西洋近代医学(ドイツ医学)のみを国家の認める正当な医療と定めました(明治七年の医制発布)。

 そして、明治維新(1868年)そのものが、科学の発展による資本主義と強大な軍事力を背景にした、植民地主義という世界状勢に迫られたものでした。それは、清(当時の中国)がイギリスの植民地になった直後の時代です。

 その結果として、機械論的生命観への急激なシフトが行なわれたのです。西洋列強による日本の植民地化を恐れるあまりの、維新以来の急激な近代化が、日本人に大きな影響を与えたのが、明治・大正・昭和という時代でした。

 このようにして、日本人の心身は明治維新を境に、大きく変化しました。身体の重心は、明治時代中期までの「腰・腹」から、大正時代には胸へ、昭和には頭へと上って行ったのです。

 重心が胸に上がった大正時代には肺結核が猛威をふるいました。身体上における近代化とは、「身体の重心が押し上げられること」でした。このような時代に、師野口晴哉は「西洋近代医学に代替する智」を思想として掲げ、起ち上がったのです。

 医療の近代医学一元化において、古来よりの日本的生命観「気の思想」が、近代科学に一気に駆逐されようとしたのであり、このこと一事において、西洋文明による文化的植民地化というものです。

 科学の世界においては、目に見えないものは「対象外」ですから、「気」も「心」も含まれていないのです。