近代化が人間に与えた影響と東洋的身体―気の思想と目的論的生命観 8
心理的中心と重力的中心の一致
金井先生は以前、人間の中心について、野口整体の観点から、次のように説いたことがあります(近藤による編集)。
「心の中心」とは、身体感覚的中心のことで、この二つの「中心」が一つであることを古来より「心身一如」と呼び慣わして来ました。それは重力的中心に「心」が坐ることであり、これを「体の重心が決まっている」と感じてきたということです。
重力的中心とは「体の構造としての中心」ということであり、身体感覚的中心とは「心身の機能的中心」を意味しています。本来の位置ではないところに「中心」を感じるとき、心身は不安定となり、自分の中心が丹田にあるとき、心と身の機能を最大限発揮することができます。
重力的中心が身体感覚として捉えられる。重力的中心と身体感覚的中心を一致させて「身、心」を使っていくことが、肚の文化ということなのです。
本来、重力的中心が丹田にあるのに、みぞおちが硬くなってしまったときには、身体感覚的中心が、みぞおちに行ってしまい、歩く時、みぞおちで歩いているように感じてとても具合が悪いものです。
ひどい時には首に中心があるような感覚にもなってしまう。自然の仕組みとしては、中心は下腹にあり、上に行けば自然の状態から離れる。それが自然の摂理なのです。
ここに戻ることができれば健全であり、「自然の健康」なのです。そしてより根源的な生命力であり、理にかなった生き方、「裡なる神仏」というものと一体になる、とは、この状態にあるということです。
上巻で、金井先生はデュルクハイム(心理療法家)の『肚 ― 人間の重心』解題を引用し、次のように述べています(カッコ内は金井先生)。
(金井)
…日本滞在は1937年から47年までの十年に及ぶが、デュルクハイムにとっては革命的な意味をもつ年月であったと言えよう。日本人の生活に関心を持ち、
特に日本人の心の持ち方に興味を抱いた。そして西洋人の心を蝕んでいる心身二元論に橋渡しをする心の持ち方をその中から得ようとした。
特に禅仏教の研究を通して、坐禅がキリスト教の伝統の中で生きる西洋人にも意義深いことを発見し、1948年以降マリア・ヒッピウス博士(デュルクハイム夫人)と共に、西独のシュヴァルツ・ヴァルト(黒い森)に開設したトットモース・リュッテ実存心理学的教育センターの治療法の一つとした。
坐禅と並ぶもう一つの治療法は、これがデュルクハイム独特のものなのであるが、彼が研究と体験からあみだした「身体療法(ライプテラピー)」である。
この分野では、人間が所有している「肉体(ケルパー)」と、それこそが人間そのものである「身体(ライプ)」とが区別して取り扱われている(註)。
…ここで言う肉体とは、直接、医学に関わるもの、病気とか、痛みとか、死に関係すること、したがって健康とかスポーツの能力等にも関係すること(=客観(近代)的身体)であるが、身体とは、人間の行動や身振り全体の中にあるもの、表現し、提示し、実現したり、し損なったりするものである。
身体は私そのもの(=主体的身体)であるから、身体を与えられている私が、身体の中の「本質(Wesen)」に対して透明(無心)になるとき、私は異常のない状態となる。したがって、「身体療法」とはマッサージではない。
自分の態度が間違っていることに気付くこと、正しい態度を見いだすこと、正しい姿勢を見いだすことである。この正しい姿勢をとり、不動の姿勢で坐り、無念無想となって、すなわち根本から無になって、「本質」と出会う用意をする修行が坐禅である。
(註)ドイツ語のケルパー・ライプは、ともに体を意味するが、ケルパーは「物」としての体を意味し、ライプは主体的「身体」を意味する。
右の文中で、デュルクハイムが「肉体(ケルパー)と身体(ライプ)」と用いているのは、私が用いる「肉体と身体」という言葉の使い方と同様と思います。
日本の伝統的身体(「腰・肚」による身体)では、人間の中心は丹田にありました。西洋近代での人間の中心は、「理性」のはたらきをする大脳皮質のある「頭」で、その持ち物が肉体です。
洋の東西を問わず、中心とは「魂」のことで、「魂が肚にあるか、頭にあるか」という違いが、東西の身体(心身)観の相違なのです。そして、これが本書における「近代科学と東洋宗教」という対比となりました。
西洋では、人間の中心(魂)は「頭・理性」にあり、近代科学は、理性によって自身の体を対象化し、客体として捉える「心身二元論」に基づいています。
東洋では、人間の中心(魂)は「肚・丹田」にあり、東洋宗教は、気を通して、体と心の一元性(身体性)を探求する「身心一元論」に基づいています。
心身二元論では人間の意識が理性に偏って発達することで、自身の感情が自覚できない(=意識で捉えられない)ものとなるのです。
この無意識化された感情(のエネルギー)が自身を支配する(=自我の主体性を奪う・コンプレックス)という問題点に対して、身心一元性を探求する方法が必要となることから、デュルクハイムは日本の道・「肚」を持ち帰ったと、捉えています。