第二部 第四章 三4 指導を通じ「身体と頭脳」の関係を知る― 整体とは調身・調息・調心
そして、2010年7月の整体個人指導では次のような体験があった。
それは、真田さんが勤務する組織で事件が起こった時のことだった。真田さんはその対応で、非常に動揺し混乱していた。
この日の指導の終盤、金井先生は、深い沈黙の内で操法を行った。真田さんは、操法を通じて次第に「腰が据わる(腰がしっかりと定まる)」ようになっていくのを感じ、それとともに心が落ち着き、動揺が消えるという体験をした。そしてその翌日、金井先生に次のようなお礼のメールを送った。
昨日はありがとうございました。
沈黙のうちにご指導いただいた終盤の数分間、私の中に中心が据えられていく感覚を覚えました。その瞬間、周囲に吹き荒れた暴風がやみ、静寂が訪れました。今は組織を守る道こそが大局と悟りました。
本日午後、所轄庁に赴き、事件はすべて解明、解決に至った旨報告し、一切の疑義なく受理され事なきを得ました。これは紛れもなくご指導の賜物であり、厚く御礼を申し上げる次第です。引き続きご指導の程、伏してお願い申し上げます。
真田さんにとって、「腹が据わる」という体験はかけがえのないものだった。真田さんは理性的能力の高い人だが、この体験を経て「理性ばかりを働かせると、状況的な詳細にとらわれ、本質を見失う」と悟った。これは「木を見て森を見ず」という状態で、結果的に判断に迷いが出たり、揺らぐことにもつながる。
しかし、理性(頭)だけでなく、「腰」が同時に働いていると物事を大局的に捉えることができる。腰による判断は明晰で、問題解決力があり、自分のみならず周囲の人間をも納得させる。そして、腰と腹がしっかりと充実することは、心が充実するということでもあると体感できた。
そして、金井先生はその後、
腰が入った身体は「上虚下実」の状態で、「虚」とは鳩尾が柔らかく「実」は丹田に力が入ること。この反対に鳩尾が硬いと頭が良くは働かず、枝葉末節に捉われ本質が捉えられない。
という「身体と頭脳の関係」について教えてくださった。これは金井先生流「肚」の現代的理解だ。
まずは、身体をきちんと整え(調身)、呼吸を深くし(調息)、無心(調心)となった後に考えをまとめる。勝負の時こそ、これが大切なのだと真田さんは悟った。そして「改めて、この道を歩むことで、精進したい」という思いに駆られた。
(金井)
現代では、頭がはたらくことが心のはたらきだと思い、身体を忘れているのです。身体の上の方にある頭ですから、身体が安定した(心の落ち着いた)状態でこそ良くはたらくのです。
敗戦後の理性至上主義教育は、日本の伝統的な「上虚下実」の身体教育(「道」文化)を喪失したのです。
(近藤)12月12日記事はお休みします。
第二部 第四章 三3 野口整体の道における修養は「身体を先立てる」
この出来事があった後、真田さんは「野口整体の道は行であり、身体性の修養である」と考えるようになった。
一般に修養と言うと、精神作用によるものと理解されがちであり、真田さんも修養を精神の営みだと捉えていたが、1で述べた個人指導での「腹(肚)」の体験―心の空虚感を身体的に腹の空虚として感じたこと―は、こうした理解を覆すものだった。
そして、身体感覚を通じて自分のありようを捉えたという体験によって、野口整体は身体を通して人の道を学び、成長する道程なのだと実感したのだった。
(金井)
ここで言う「精神の営みと理解されがち」な修養とは、「理性による内省(理性で自分の心の中を観察すること。第一部第三章三 3参照)」に近いものですが、野口整体は、とりわけ「心を整えるに身体を先立てる」ものです。
(理性を精神(心)とする「心身二元論」と身心一如の「身心一元論」の相違)
曹洞禅の開祖・道元の思想「身心学道」は、心が身体を支配するのではなく、逆に身体のあり方が心のあり方を支配するという「身体を心より上位に置いて重視する態度」なのです。このような態度は、禅のみならず、茶道や武道、舞踊など伝統的な日本文化に通底するものです。
(「道」文化を喪失した敗戦後は「身心一元論」から「心身二元論」へシフトした)
この指導時、真田さんは金井先生から
「今、起きている問題が、自分と切れた『因果関係』によって起きているのではなく、潜在的な自分の問題点と関連して起きている、という捉え方をしたことがありますか?このような布置(註)的体験をした後の、自分自身の捉え方にどのような変化がありましたか?」
と問いかけられた。
(註)布置(ふちドイツ語・コンステラツィオーン)個人の精神が困難な状
態に直面したり、発達の過程において重要な局面に出逢ったとき、個人の心の内的世界における問題のありようと、ちょうど対応するように、外的世界の事物や事象が、ある特定の配置を持って現れてくること。布置は、共時性の一つの現れであると考えられる。
そして、真田さんの裡に「自らが変わらない限り、自らを取り巻く問題は変わらない」という2006年8月以来の命題が、再び浮上した。
真田さんが腹で感じた空虚感は、「疎外感」というものだった。真田さんは、「この疎外感は、潜在的に自分の中にあったものではないだろうか」と思った。実はそれを、子どもの時から感じてきたのではないだろうか。真田さんはこの時初めてそれを意識したのだった。
金井先生の問いかけの中にある、「これまで向き合ってこなかった自分の問題点」を見出し、向き合うことが私に今必要な修養なのだ。真田さんはそのことを身体に教えられ、整体指導者が介在するのはこのような修養を通して成長するためなのだと思った。
整体指導者と指導を受ける人との関係は、日本で古くから受け継がれる師弟関係なのだ。真田さんは、金井先生は師として修養を導いてくださっているのだと確信した。
第二部 第四章 三2 個人指導を通じての感情の分化― 潜在意識の意識化とは表現すること・受け取られること
※今回の内容は全文が金井先生による原稿なので、そのまま掲載します。
(金井)
私は1での指導時、「心の空虚感」と表現しましたが、この「虚」とは、彼が「職員たちの冷たい視線を感じた(=集合的無意識から離脱した)」ことで、「心に穴が空いた(個人的無意識の状態)」ことを意味するものです。
彼が裡(身体の中心)で感じていたこの「空虚感」を、私が意図せず共有したことで、自ずと言葉になったのは、自発的な「感情の分化」というものです。
「感情の分化」とは、快・不快の情動が喜怒哀楽の感情へと発達していくことです。乳幼児は、言語化できない感情を他者に受け取ってもらう(身体接触と言葉がけをする)ことで、心が発達していきます。これを「感情の分化」と言い、成人になっても同様の過程を経て、心(感情)が発達していくのです。
そして、情動による身体的変化を感じる能力である身体感覚が鈍く、その感情がどのようなものかを、意識化(言語化)できない状態を「感情の未分化」といいます。
感情の未分化な人は、他人との共感や感情の交流(思いを伝える・自他の違いを理解する)が図り難いことで、人間関係が上手くいかず、ストレスを感じやすくなり、また、それがひきこもりや不登校、時に反社会的な行動につながることがあります。
(「共感や感情の交流」の能力は理性(合理)的な能力とは別物)
「心の空虚感」を自覚するとは、本人にとっては辛い体験ですが、これをきっかけとして「感覚や感情」の言語表現を多様にすることは、豊かな感性を形成して行くことになるのです。
河合隼雄氏は、このような場における「関係性」について次のように述べています(『宗教と科学』Ⅱ いま「心」とは)。
1 深層心理学
…深層心理学が発達してくるにつれて、治療者・患者の人間関係が極めて大切であることが明らかになってきた。つまり、治療者が「開かれた」態度をもっていないと、患者が自分の心の深い部分へと探索を行うことができないのである。
これは患者のなかには、面接の後で、あんなことを話すつもりではなかったのにとか、まるっきり忘れていたことを不思議に思い出してしまったとか言う人があるように、二人の関係のなかで話題が変化し、そこに治療的意味が生じてくるのである。
このことは、自然科学の発展のはじまりとして述べた、自と他を明確に区別して、他を対象化するという態度とまったく異なってくる。ここに深層心理学が科学性という点で重大な問題をかかえこんでくるのである。患者をまるっきり対象化して治療者が臨んだとき、患者としては自分の内面の深いことを話せないのは当然であろう。
第二部 第四章 三 科学的知性(教養)の持ち主が「身体性(修養)」に目覚める 1
今回から三に入ります。真田さんは個人指導を通じて自分本来のあり方を思い出し、理性的のみならず、感情の強さを出して人に対峙していくことで突破口を開きました。こうして、出勤困難という事態は脱したのですが、その後も人間を相手にしていく場面での試練は続きました。
真田さんはもともと経理や資産運営などの能力、合理的能力といった面は高い人であり、そうした評価があったから役職を得たと言えますが、管理職というのは人間を扱う場面(人事など)が増えるもので、先に上げた能力とは異なる能力が必要になってくるのです。優秀とされていた人が良い上司になるとは限らない…というのは、こうした理由があるのでしょう。
私は金井先生とともに真田さんに話を聞いたりして原稿づくりに関わっていた頃、『気の深層心理学』というタイトルを考え、金井先生にも提案したことがありました。それは、今回の内容から連想した言葉で、今でも印象に残っています。
それでは今回の内容に入ります。
1 身体から心(自己)を観る体験の始まり―「腹」の体験と身心一元論
2010年、個人指導の意味と価値を理解した真田さんは心して個人指導を受けようという気持ちになり、忙しいさなかにあっても定期的に道場に通っていました。
仕事の上では困難な状態が続いており、真田さんは管理職を二人解任し一人は解雇という処置をしなければならない時があった。人事について強い権限を持つ立場にあり、こうした処置はこれまで何度も経験してきたものの、この内の一人の男性に対する処遇で、真田さんは心を揺るがすような衝撃を受けることになった。
解任しなければならない二人の管理職の内、一人は解任後も真田さんの下で別の職務に着かせ、在職させる計画だった。しかし、真田さんより世代が上であったこの人は、自ら辞表を提出したのだった。
真田さんはもとよりこの男性を評価しており、信頼もしていたのだが、その潔さ、誇り高さに圧倒されたという。役職としては自身の方が上であり、権限を行使する側であったものの、人間としては自分をはるかに凌駕する、大きな度量のある人だと感じたのだった。
この人の辞職を全職員に告げた時、多くの職員が彼に共感し、辞表を出すに至った彼に同情した。そしてその後、真田さんは職員から冷たい視線を向けられるようになった。
同時期に、真田さんの直接の部下で期待していた数名の職員が、突然辞表を提出してきた。真田さんはなぜ自分の元から離れていくのか理解できず、自身の人間的な度量、在り方に問題があってこのような事態になっているのではないかと思った。
このような時期、真田さんは個人指導で一連の状況について金井先生に話をしたことがあった。この時、指導中に金井先生が真田さんの腹部に手を触れたのだが、不意に「食べても、食べても充ちない、腹が空っぽのような感じなんです」という言葉が出た。それは真田さんは意識下で感じていたことで、それまでは言葉になっていないことだった。
金井先生は「この腹の感覚が、今のあなたの『心の空虚感』を表しています」と言い、「腹は、精神的な『人間の中心』なのです。これからは、内側で感じている感覚や感情を、なるべく言葉にするようにしてください。できれば、それを身体的に(「からだ言葉」的に)表現することで、意識と無意識の統合性を図っていくことが大切です。」と言った。
真田さんは身心一元論や「腰・肚」文化について、文献等を読んで学んできていたが、この「腹」の実体験は初めてのことであり、金井先生の言葉は衝撃的だった。
真田さんは指導後、金井先生に次のようなお礼のメールを送った。
「腹」の空虚感、「食べても、食べても充ちない、腹が空っぽのような感じなんです」は、前回指導を頂いている時に、ふいに意識化されたものでした。指導を受けるまでの間にも、その感覚はあったのだと思いますが、意識化され、言葉で表現できたのは、指導に対する感応であると確信しております。
これまで、『肚』について書物を通して学び、考えることがありました。しかし今回の、腹を感じ、言葉で表現することは、私にとって、一種の宗教的な体験でした。ここから自らの変革が始まる、という意味での深い体験です。
真田さんは、自身の内にある空虚感を否定的には捉えなかった。むしろ腹で空虚感に気づくことができたことで、自身の腹を充実させ、「肚」のある人間になりたいという強い欲求を感じたという。
(金井)
「食べても、食べても充ちない」という時は、心が衝撃を受けており、味覚がはたらかなくなっている(美味しく感じないことで充ちない)のです。このような時、私が観察する(気で観る)お腹は、たくさん食べていても空っぽなのです。
こういう時、やたら食べず、衝撃を受けた心を自覚し、反省的に気を鎮めることが肝要です(経過することで感覚(味覚を含む)が戻る)。
こうして『肚』はできていくのです。
第二部 第四章 二4 身体の可能性とは― 理性の世界から身体性の世界へ
2008年3月、真田さんは中国雲南省の少数民族出身のヤン・リーピンという舞踊家が来日し、その公演を鑑賞した。舞踊は生命の躍動とも言えるほどで、その美しさに感動した。身体の動きに感動するというのは真田さんにとって初めての体験だった。
その後真田さんは、身体とは、身体の「可能性」とは、について考え始めるようになり、できるだけ身体の変化に目を向けて、その変化の原因はどのような感情からきたのかと、情動に注意を向けるようにした。
しかし整体指導を受けてみると、自分が思ったことの多くは、表層的な意識による観察で捉えたに過ぎなかった。金井先生から身体の観察から「何かがありましたね」と問いかけられ、自分なりに思い起こして「これだ」と思っても、指導が進むと別のことに原因があったことに気づかされることが何度もあったのだった。
そして、この真の気づき(=悟り)が訪れると、重心が下がり身体が落ち着く、という体験を重ねていった。「腑に落ちる」という言葉の意味を、この頃、初めて身体で実感することができた。
(金井)
このように指導が進む理由は、指導の最初に「張りや痛み」を本人の身体感覚によって確認し、これを私が共有しているということがあります。また、後から思い出したことが真の原因というのはよくあることで、体の硬張りとなっている主原因の抑圧感情は、心のより下層にあるものです。
愉気によって、「張りや痛み」と「意識下の感情」がつながり、さらに、本人の意識の全体(感覚・思考・感情)が明瞭になるほどに、真の原因とつながり易くなります。
「腑に落ちる」が、身体が落ち着くことだと感じられることは、身体感覚と同時に「気」の感覚が涵養されたのです(気は心と体をつなぐもの)。
第二部 第四章 二3 身体感覚の涵養を通じ、自己認識を深めようと努める
真田さんは、身体の変動に心の動きが表れることに気づく意味と大切さを個人指導を通じて学んでいたが、忙しい毎日の中でこのことを意識化することはなかなかできなかった。
個人指導では気づきを得ることができても、日常に戻ると気づくのが難しくなるのだ。整体を通じて十全に生きることを目指していたものの、この課題はあった。
真田さんは振り返ってみると、知識として理解していたと言う。これは身体感覚が十分に養われていなかったことで、身を以て、感覚的に理解することができなかったということだ。
(金井)
感情と分離していた(理性を主とした)意識は、身体感覚が涵養されることで、自身の感情とつながるのです。
(やがて、感情を自我に統合し、さらに、主体的自己把持(意識と無意識の統合)へと進む。第一部の始まりに「現代の科学的教育によって発達した「理性に偏った意識」は、自我と身体に分裂をもたらしています。」と述べたが、こうして「感情を自我に統合する」ことが可能となる)
それでも、整体指導の積み重ねによって身体的な気づきを促され、真田さんは自分についての理解を深めていった。
真田さんは整体指導の中で、子どもの頃の出来事を突然思い出すと言う体験を度々していたのだが、この経験を通じて子どもの頃の様々な心の抑圧が今でも影響を与えており、今の自分のありようにつながっていることを理解しはじめていた。
個人指導の中で、体の使い方も少しずつ学んでいったが、中でも「正しい正坐」は指導の中で度々教わった。この正しい正坐を自分でやって見ると、きちんと坐ることが非常に難しいことが分かる。下半身に力が入るので、この坐を保つのは意外にきついものだが、腰が入っている時は快感がある。こういう時は、仕事のことで頭が混乱している時も、指導で腰が据わると落ちついて考えることができるのだった。
その他にも、指導の中で仰向けに寝て、左右の脚踵を交互に突き出しアキレス腱を伸ばす運動や、側腹を伸ばす運動を誘導された。これらの運動をすると、頭がすっきりして、腰が落ち着く感覚が出てきて「正しい正坐」をやり易くなった。
こうした身体的な指導を通じて、快い身体の状態を体感することができた。これは、自身の内に、立ち返る場所を見つけたとも言える。
この頃の私は、もはや人に好かれよう、慕われようとして体裁を繕うことはしなくなり、大義を通すためであれば、嫌われること、疎まれること、恨まれることを恐れたり、厭うこともなくなっていた。また、地位と力を行使し、志を遂げたいという強い欲求を感じるようになっていた。
これはかつて管理職にはなりたくないと思っていた自分とは正反対の境地で、整体指導を通じ、身体との対話を通して深まった「自分」に対する理解と自己イメージの変容によるものだった。こうした自己認識の深まりが、真田さんに主体性を育んでいったのだった。