野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第二部 第四章 三3 野口整体の道における修養は「身体を先立てる」

 この出来事があった後、真田さんは「野口整体の道は行であり、身体性の修養である」と考えるようになった。

 一般に修養と言うと、精神作用によるものと理解されがちであり、真田さんも修養を精神の営みだと捉えていたが、で述べた個人指導での「腹(肚)」の体験―心の空虚感を身体的に腹の空虚として感じたこと―は、こうした理解を覆すものだった。

 そして、身体感覚を通じて自分のありようを捉えたという体験によって、野口整体は身体を通して人の道を学び、成長する道程なのだと実感したのだった。

(金井)

 ここで言う「精神の営みと理解されがち」な修養とは、「理性による内省(理性で自分の心の中を観察すること。第一部第三章三 3参照)」に近いものですが、野口整体は、とりわけ「心を整えるに身体を先立てる」ものです。

(理性を精神(心)とする「心身二元論」と身心一如の「身心一元論」の相違)

 曹洞禅の開祖・道元の思想「身心学道」は、心が身体を支配するのではなく、逆に身体のあり方が心のあり方を支配するという「身体を心より上位に置いて重視する態度」なのです。このような態度は、禅のみならず、茶道や武道、舞踊など伝統的な日本文化に通底するものです。

(「道」文化を喪失した敗戦後は「身心一元論」から「心身二元論」へシフトした)

 この指導時、真田さんは金井先生から

「今、起きている問題が、自分と切れた『因果関係』によって起きているのではなく、潜在的な自分の問題点と関連して起きている、という捉え方をしたことがありますか?このような布置(註)的体験をした後の、自分自身の捉え方にどのような変化がありましたか?」

と問いかけられた。

(註)布置(ふちドイツ語・コンステラツィオーン)個人の精神が困難な状

態に直面したり、発達の過程において重要な局面に出逢ったとき、個人の心の内的世界における問題のありようと、ちょうど対応するように、外的世界の事物や事象が、ある特定の配置を持って現れてくること。布置は、共時性の一つの現れであると考えられる。

 そして、真田さんの裡に「自らが変わらない限り、自らを取り巻く問題は変わらない」という2006年8月以来の命題が、再び浮上した。

 真田さんが腹で感じた空虚感は、「疎外感」というものだった。真田さんは、「この疎外感は、潜在的に自分の中にあったものではないだろうか」と思った。実はそれを、子どもの時から感じてきたのではないだろうか。真田さんはこの時初めてそれを意識したのだった。

 金井先生の問いかけの中にある、「これまで向き合ってこなかった自分の問題点」を見出し、向き合うことが私に今必要な修養なのだ。真田さんはそのことを身体に教えられ、整体指導者が介在するのはこのような修養を通して成長するためなのだと思った。

 整体指導者と指導を受ける人との関係は、日本で古くから受け継がれる師弟関係なのだ。真田さんは、金井先生は師として修養を導いてくださっているのだと確信した。