野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 四2 活元運動は身体感覚の発達によって理解が進む

「自分の健康は自分で保つ」ことができる方法があると、最近では、活元運動に関心を持つ人が増えています。

 活元運動により「自分の健康は自分で保つ」ことができるのですが、それには活元運動の質が良いものとなることです。質の向上には、訓練が進む中で「身体感覚」が発達することが肝要で、これについて述べたいと思います。

 2002年6月、『整体入門』(筑摩書房)が復刊され、ベストセラーとなりました。多くの人が整体協会に押し寄せる中、野口昭子夫人は「年頭のご挨拶」で次のように述べています(『月刊全生』)。

新年おめでとうございます。

 思えば六十何年か前、若き野口晴哉の『全生』に共感し、整体の道ひとすじに生きて、いつのまにか八十も半ばを過ぎました。

 この年になって思いがけないことは、自分の活元運動が若いころよりも軽やかになってきたことです。それは先生がこの世を去ってから、私にとって愉気と活元運動しかなかったからだと思います。しかも、自分の体の変動や苦痛を自分で経過したときのあの快さの積み重ねが私にとって整体の道をゆるぎないものにしました

 最近、野口晴哉著『整体入門』『風邪の効用』が市販され、多くの方達に知られるようになりましたが、整体の道は、知識ではなく体験を通してのみ理解できると思っております。

 傍線部は、現代の科学的傾向に対し、伝統的な道文化(茶道・舞踊など)と同様、野口整体は実践を先立てるものであり、身体でその思想を会得(また体認)するものであることを、昭子夫人は強調されているのです(近代科学の理性主義と東洋宗教の体験主義)。

 科学的なものは「理性で理解できるから信じる」という態度で良いのですが、整体の道は「行法を通じて理解を深める」という向き合い方です。これは「身体性」によって理解するということであり、整体は体験を重ね深めていく道なのです。

 

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 四 瞑想行としての活元運動― 瞑想的な意識と身体感覚を育てる 1

1 活元運動・準備運動を行う時の注意点― 正坐によって行う意味

 活元運動は「動く禅」と呼ばれる瞑想法です。

禅の瞑想では、何も考えないで長い間じっと坐り、湧き出してくる雑念や妄想が次第になくなっていくように努力するのですが、同じ目的を、錐体外路系運動によって行なおうとするのが活元運動です。

 ですから、活元運動は身体が「無心」の状態に至ることが目標です。その為、正坐による「沈思の実践」が肝要で、活元運動を行なう上で正坐は必須のものです。先ずは正坐をし、改まった気持ちで身体に向き合います。

 腰が中心となる正坐という構えは、身体や呼吸に注意を集め易く、自分の意識(心の状態)がどうなっているかの把握を容易にするという利点があります。

 そして、活元運動は無意識(また潜在意識)のはたらきですから、これを活発にするため、現在意識のはたらきを弱める(感情や理性を静め意識が裡に向かう)ことが肝要です(瞑想法一般のあり方と同じ)。

 活元運動に向かう心の態度を、師野口晴哉は「意識を閉じて無心に聴く」と表現しました。

 このようにして、活元運動の準備運動に取り組みます。

 準備運動を行っても、現在意識のはたらきが弱まらない(心が鎮まらない)時、そのままに活元運動を行なうことは良くありません。

 本章一(1②)で述べたように、交感神経が優位なままで、副交感神経優位の状態に切り替わることができない(頭の中にいろいろな気持ち(感情の滞り・雑念)がある)と、良い活元運動とならないのです。

 特に注意すべきは、活元運動を行なって「すっきりする」効用を味わった人で、ぽかんとならない(頭が忙しい)まま効用を急ぎ、活元運動をしようとすることがあります。これでは、無心の運動とはならないのです。

 長年の経験者なら「ぽかん」としないと、良い運動が出ないことは、よく承知していることです。

 良い活元運動とならない身体(意識)の状態があるのです。

 活元運動を正坐で行なうことは、上体の動きを下半身で支えるというもの(註)で、それで運動が発展することができるのです。

(註)正坐は下半身を屈して、上体を和らげる(腰より上を楽にする)もので、骨盤部や大腿部という下半身にきちんと力が入るのが、正坐の理想的なありよう。下半身に力が入ることで上半身の力が抜け、上体の自由度が増す(これが闊達な心=「上虚下実」の意義)。

 活元運動を行なう上では正坐が基本ですが、正坐をすると足が痛い人は、坐(ざ)蒲(ふ)(坐禅の際に使用する円形の座布団)や座布団(厚くないもの)を使う方法があります。より正坐が苦手な人は、椅子坐(背もたれのない丸椅子)も可です。正坐に無理がない(重心が低い)身体へと進んでから正坐での運動を行なって下さい。

 また、活元運動は疲れすぎて余力がない時は不適当です(特に、活元会の場ではなく一人で行なう場合)。そして自覚せぬ疲労(緊張)で、準備運動をしても「ぽかん」としないことがありますが、こんな時も活元運動は発動しにくいものです。余力があり、改まった気持ちで臨める時行なって下さい。

 自分の意識状態を自覚して活元運動を行い、運動によってその変容を感じ取ることが大切です。

 整体とは、「良い空想ができる身体」と言えますが、このような意識状態に変容することが活元運動の目標です(つまり、潜在意識のクリーニングである)。

 

禅文化としての野口整体 活元運動 第二章 三2 活元運動の準備運動

Ⅰ 邪気の吐出法(鳩尾(みぞおち)をゆるめる)

① 正坐(膝を少し開く)をして、肋骨の下、鳩尾(みぞおち)に両手を軽く当て、鼻から息を吸います。

② 吸ったらじきに、「はーっ」と(声を出しながら)口から息を吐いていき(老廃の気を全て吐く)、上体をゆっくりと倒していきます。

長く吐いていくのが良い。

③ 身体の弛みが良いと、吐き切った時に肩・腕の力が抜け、おでこが畳(床面)に着きます。

 弛むことが不十分な初心者は長く吐けないので、おでこが下に着かずともかまいません。

④ 次に鼻で息を吸いながら上体をゆっくりと起こします。

 この①~④までを三回ほど繰り返します。

息を、細くとも長く吐くことで弛むことを覚えましょう。

Ⅱ 背骨を捻る運動(体側・側腹をゆるめる)

① きちんと腰を伸ばして正坐をします。

② 左側から行います。後ろを見るようにお臍とその真後ろ(腰椎三番)で捻ります(次頁図)。逆側(右)の腿の内側に右手を添え、少し反動をつけるとよく捻ることができます。

③ 真後ろ一メートルほどのところを見たら、ポンと力を抜きます。

④ ①に戻り右側に捻ります(左側の腿の内側に左手を添える)。

左右交互に数回行ないます。

Ⅲ 訓練法(延髄に刺激を与える)

① きちんと正坐をします。少し顔を上げ、鼻から息を吸いつつ、両腕を挙げながら、腰を伸ばしていきます。

② 親指を内にして拳を握り、口から息を吐きながら、肩胛骨を寄せつつ背骨の上部(胸椎五番)に力を集めます(上図)。息を吐き切る手前で、親指をさらに握って、奥歯を噛みしめ、吐き切ったところで、ポンと力を抜きます。

③ この運動は三回だけ行い、三回目は軽くやって終えます。

④ その後、手のひらを上にして膝の上に置きます。目を閉じ肩の力を抜いて、体の内側に感覚を向けていると、体が動くような気がしてきます。

 最初は、それを増幅していくようなつもりで、動き出してきたらそれに沿うようにして体の自然の動きに任せてみましょう。

 

 

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 三 活元運動の実践 1

 このところ所用で更新できず申し訳ありませんでした。今日からいよいよ活元運動の実践編です。

1 活元運動は感受性の訓練― 明瞭な意識が「裡の要求」を見極める

 師野口晴哉は、講義の中で「心と体は同じもの(身心一元)」と、くり返し語っていました。当時何気なく、この言葉を聞いていた私は、三十年ほど前からやはり何気なく、これを人に語るようになっています。今では、長年の整体指導を通じて「心を識るのに体を観る」というのが、ごく自然なこととなりました。

 当節日本では、西洋的な「考え方で生きる」ことが一般的になり、働く女性の多くも「頭で生きる」生活となっています。

 頭で考えたことが心(体)に合致している場合は良いのですが、頭(意識)を使い過ぎると、心(感情)や体(無意識)のことが解らなくなります。その結果、体に背いたままの生活により、生理痛や生理不順は当たり前となってしまいます。いや、体は、生理痛により「体の自然」を取り戻そうとしているのです。

「体の自然」を取り戻すには「心による生活」を大切にせねばなりません。会社や仕事のありようが変わることは容易ではありませんが、せめて私生活においては、自らの「正体(しょうたい)」を取り戻すことを通じて、自身の「心の自然」を確保することが肝要です。

 心の自然を確保するとは、「裡の声」を聴くことに他なりません。心と体から発する自然な要求のことを「裡の要求」と言います。

 師は「裡の要求」について、次のように述べています(『整体法の基礎』第二章  活元運動  全生社)。

(四)

…人間は裡の要求によって生活し行動しているのです。要求は全て運動系の働きで果たしている。だから人間の体の中の要求を、どんどん運動系に出さなくてはならない。そして要求が素直に現われるようになれば、自然に健康なのです。

その運動系と要求の問題を無視して、健康をつくるつもりで、いろいろと細工をしてみても、それは飽くまでも細工にすぎない。丁寧に噛むというのも頭でつくった食べ方です。お腹が空けばガツガツ食べる方がずっと正常です。

何時になったから食べるなどというのも、こういう物は栄養があるからと言って食べるのも、頭での食べ方です。その時の自分に適う物を食べなくてはならない。

…活元運動は、自分にだけ適う運動をやります。そういう面で活元運動は、既成の体操に比べて、自分の体の要求を果たすとか、自分の体の要求によって動くとか、自分の体力を積極的に発揮するとか、調節するとかいう目的にみんな適っている。

「裡の要求」というのは、「昼食に何を食べたいか」に始まり「自分の人生を如何に生きるか」までを含み、ここには、多様性と奥深さがあります。「体を整える」とは、裡の要求をきちんと感じられることに目的があるのです。

 はじめに でも引用しましたが、師は「健康と要求」について次のように述べています。

晴風

健康の原点は自分の体に適うよう飲み、食い、働き、眠ることにある。そして、理想を画き、その実現に全生命を傾けることにある。

どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る。これが判らないようでは鈍っていると言うべきであろう。体を調え、心を静めれば、自ずから判ることで、他人の口を待つまでもあるまい。旨ければ自ずとつばが湧き、嫌なことでは快感は湧かない。

楽しく、嬉しく、快く行なえることは正しい。人生は楽々、悠々、すらすら、行動すべきである。

 この文章は「健康の原点」を端的に説いています。

 体を調え(調身)、心を静める(調心)ことで裡の要求を感じ取ることができます。活元運動は、要求に順って生活できるよう体を訓練するものです。こうして、快という感覚を通じて、身体に具わる主体性を育むのが野口整体です(こうした禅的修養の世界)。

 身心を活元運動の動きに委ね、四肢五体の硬張りが解きほぐれると、心が静まり意識が明瞭になります。そして運動の洗練は、裡の要求をよりはっきりと意識に伝えます(註)。活元運動を行ずるに当たっての師の言葉「意識を閉じて無心に聴く」とは、このことです。

活元運動は、意識の明瞭さによって、今、自己の要求するものを見極めるための「感受性の訓練」なのです。

(註)無意識(身体)には、生きてゆく上での真の目的に適った方向を教えるはたらきが潜在している。(意識に対する無意識の補償作用。上巻第一部第五章三 2で詳述)

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 二6 心も弛める活元運動②

②整体の心「天心」を保つには鍛錬が必要

 師は天心を保つことについて次のように述べています(『月刊全生』)。

大人の天心 1973年5月整体指導法中等講座

 人間は智恵があれば智恵を鍛えて、万全に逞しく生ききり得れば、それが清田自然です。私が無心とか天心とか言っていますが、赤ちゃんにそんなものは求めないのです。

 赤ちゃんは天心以外の何物でもないから、赤ちゃんには俗心を持つべく教えております。大人には天心を持てといいます。大人が天心になるのは大変なことです。それがもし赤ちゃんと同じ天心になったとしたならば、大人は俗心を超えてきたのですから、鍛錬されぬいた天心です。

 だから赤ちゃんの天心には自然を観ないが、大人の天心には私は自然を観るのです。自然というものに私は、そういう鍛錬しぬいた一点というか、何かそういうものを観ているのです。

 だから大人が無心になれば、根性の悪い人が天心になれば、それは見事なものです。赤ちゃんが天心になるのは少しも見事ではない。赤ちゃんは天心以外にならないのですから。

 養生でも自然に鍛えられて強くなって、何もしないで丈夫ならばそれが一番よいのです。病気になったら、病気に鍛えられて丈夫になっていけばよいのです。

…人間の体で一番健康状態に関連があるのは体の弾力であります。つまり体や心に弾力を持っていないと体の自然の状態といえないのです。硬張って、歳をとって死ぬのも当然だけれども、生きていくという面からいうと、硬張っていくのは正常ではないのです。

 それで体の弾力を、或いは心の弾力というものをどのような状態でも持ち続けるということに於いて鍛錬という問題が出てくるのです。大人になって天心を保つのは鍛錬が要る。

 いろいろな問題があって、自然の気持ちを保てないような状態のときにでも尚保ち続けるというのはやはり鍛錬です。

 心の流れが悪くなった、という時は、その内容を無意識的に考えることを敢えて止め、まず「自然体」に戻ることで、自然な「川の流れ」を取り戻すことです。

これまでうつ気味であった人が、活元運動に精力的に取り組むようになり、良い運動が出るようになった時、その様が「流れるように」観えたことがあります。この時、本当に人に具わる「自然」を感じます。

 古語に「流れる水は腐らない」とありますが、人の「身心」も同じで、流れが良いことが何よりです。流れれば、「心は治まるところに収まる」のです。この治まるところが「肚(丹田)」というもので、日本人は伝統的に大切にしてきたのです。

 良い活元運動が出て、こだわりが抜けると「気」が入って来、スーッとして「無心・天心」になるのです。こうなると、「自分が戻ってきた」と表現する人もあり、「世の中が明るく見える」「新しいことをしたくなる」など、主体性を取り戻したことで意欲が出て来るのです。

これは、うつ傾向の人に限らず「閉鎖系」であった状態が、外界との関係性が変わり「開放系(註)」になったことで、良い空想がはたらくことから、何らかの意欲が生じてくるのです(外界との関係性が変わる=心の窓が開く)。

 整体とは「良い空想ができる身体」なのです。

(註)開放系 外界と気の授受が行われている状態。

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 二6 心も弛める活元運動①

①無心・天心は「上虚下実」の身体から

5で表した「考えている」ことが、無意識的に行なわれている時は、本人がその内容に向き合い主体的に考えているのではないのです。こうした、頭を消極的に、かつ無意識的に使っている状態では、エネルギーの充電をすることはできません。

 頭に偏ることは、睡眠の質に影響し熟睡が阻まれるのです。それで、脳が活性化されず身心が刷新されなくなるのです(熟睡による自然治癒力の効能に勝るものはない)。

 筋肉の中には「筋紡錘」という受容器があり、これが神経と連絡しており、筋肉の収縮状態を脳に伝えるはたらきをしています。睡眠時に筋肉のどこかが緊張(収縮)していると、筋紡錘から伝わる筋肉の興奮が刺戟として絶えず脳に伝わるのです。

 ですから、筋肉が緊張し通しだったら頭もどこかで緊張しているので、深く眠ることができません。そのため、寝相で体を転々と動かして筋肉を弛め、深い眠りにつこうとするのです。

「元気な子どもは寝相が悪い」と、昔から言われてきた意味(わけ)をこのように説明することができます。このようなはたらき(疲労回復力)は、大人になるにつれ低下しがちのもので、ここに活元運動(錐体外路系運動の訓練)を行う理由があります。

 師野口晴哉は、熟睡のため身心を弛めることについて、次のように述べています(『風声明語』)。

丈夫な体をつくる方法

 まず体を弛める。体中をスッカリ弛める。心も弛める。

体には意識してやめようとしてもやまない不随意緊張部分がある。この筋緊張が筋紡錐から絶えず大脳へ信号を発するので大脳は休まらない。

…体を弛めねば休まらない。休まなければ自然の緊張は生じない。力一パイの集注もできない。体を弛めて寝なさい。

…風邪をひき、発熱し発汗するのも、又弛める為の自然の方法なのである。転々と寝相を変えるのも又その為なのである。全身的入浴や部分的入浴もその為に行なうのである。

 しかし弛める為に弛めるのではない。脱力し弛めるのは、全身心を一つにして緊張させ、力一パイ活動させる為なのである。しかも弛めるのは体だけではない。心も弛めなければならない。工夫や執着や憎しみや悩みを眠りの中に持ち込んではいけない。天心にかえって眠ることである。

 溌剌と生くる者に安らかな眠りがある。

 頭が抜けない=無心・天心(註)に片時もならないことで、人は不自然になるのです。日本の伝統的身体文化「型」=「腰・肚」文化とは、自然体を保つという意義があったのです(伝統的な「自然体」とは「上虚下実」を保つこと)。

(註)無心・天心 無心になってぽかんとすることを「天心」と言う。

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 二5 「うつ」状態とは― 心の流れが淀むようになっている現代

 人は一般的にも「あの人は快活だ」、また「暗い人だ」などと見るものですが、これは、心のはたらきを相手の「気」に見ているのです。

 気で〔身体〕(序章 4参照)を観察していますと、心のはたらき(潜在意識)が閊えている場合に「流れが悪い」と観えるのです。このように、私は生命の状態を「川の流れのように」観ています。

 川には、上流の急峻な流れから、下流のゆったりした流れまであるように、人にもそれぞれの速度がありますが、その人として快適に流れていれば良いわけです。

 今現在、大変多い「うつ」についてです。

 本格的な「うつ病」ではなくとも、最近では「うつ的な状態(抑うつ症)」をよく見かけます。顔だけ見ていても分からないこのような状態は、後ろから頭部と背骨を観ることで「心の動きが止まっている」と、私には不自然に観えるのです。これは、先ほど述べた「川の流れ」が悪く、淀んでいるわけです。(これは本章二 1での師の引用文にある「人間の自然の相」ではない)

 ここでうつ状態の分析例を挙げてみましょう。

 この人は、何かでカチンときているのですが、カチンときたという感情はあまり意識されないで、自分の正当性を客観的に判断するために、その時の自分や相手の態度・発言を、正確に捉え直そうと、(頭で)それを反芻して「考えてしまっている」のです。

 またある人は、カチンときた時に、その場で止まってしまい、切り返す適当な言葉が出なかったことに対して悶々とし、さらに、いつまでも気持ちが切り替えられない自分を責めて、「なぜ自分はこうなんだろう」と考えてしまうのです。

 両者ともに、この「考えている」ことが、無意識的に行なわれているというのが、うつ状態の特徴です。

 この程度までなら軽い方ですが、少し本格的なうつの状態に入っているというのは、今度はそういうことにこだわっている「自分が悪い」というように、考えることが自動的に進んで、「ジャッジ(審判)」しているのです(=理性が分離し、自身の感情と「対立」する)。

 初めは、カチンときたという感情が心にずっと引っかかって、ぶつくさ思っているうちに妄想がはたらき、今度はそういうことをしている自分を、頭の中に裁判官を登場させてジャッジするようになるのです(これが極度に進むと死にたくなると思われる)。

 私がこれを現代病だという理由は、「良い・悪い」という科学の二分法的な見方が現代人に定着していることに因るものだからです。このような現代の、客観的思考と感情を抑圧する傾向が合わさって「うつ」が多くなっていると考えています。「二分法・善悪二元論」的思考を越えるものを持つことが現代人には必要なのです(対人関係を円滑にすることに重きをおきすぎて、否定的感情を抑圧しがちな現代)。

 このような人たちは、頭が「ぐるぐる」しているのですが、腰が動かなくなっており、私は指導時、こういう人たちに「頭を回さず、腰を回せ!」と言い、腰が動くよう身体を整えるのです。

「うつ」は、腰の状態だけが問題なのではないが、体が整うことによる「求心的心理療法」となる)

「うつ」を頭の問題とのみ捉えるのではなく、重心が下りた「上虚下実」の身体を実現し、熟睡できるよう心がけることが大切です。