野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

ものの観方の違いを学ぶ意味

 私たちが体のことを意識するのは何か問題を感じた時(異常がある時)が多いのが一般的だと思いますが、そういう時、判断と処置の指針となるのが西洋医学です。これは病院で行われる診療が基づいている医学のことで、解剖学、生理学、病理学、薬学などの知見からなり、近代科学の手法に基づいて研究されています。

 現代の一般的な大人が自分の心身を捉えようとする時、ほとんどは「西洋医学の心身観に基づいて考えてみよう」と意識することもなく、西洋医学の心身観に基づいて捉えることが多いと言えましょう。

 金井先生は、野口先生が西洋医学について述べた言葉として、「西洋医学は人間の体をものとして研究した(死んだ体を解剖して得た知見を基にしていること、病気になった時、臓器や組織の機能的・器質的変化を見ることなどを意味している)」という言葉をよく引いていました。

 ガレノスとヒポクラテスで述べたように、生命のはたらきである「気」による観察を行う野口整体とは全く違う観点で人間を見ているということは、野口先生も折に触れ述べています。そして、愉気法や初等講座など野口整体の学び初めの人達には、技術の前に「整体の観方」をまず知ることを求めています。

 そして、金井先生は「その相違はどこからくるものなのか」と考え、整体だけが特殊な見方をするわけではなく、やはりある普遍性に基づいていると考えたのです。それが「科学の知・禅の智」という言葉になりました。

 禅の智、というのが野口整体の観方のことで、禅そして東洋的宗教行を通じて啓かれるものの観方(ある心の状態を通じて観えてくるのであって、観える人と観えない人がいる)に基づいているということです。

 西洋医学の見方というのは、見え方に個人差があるという立場には立っておらず、「知る」ことと「見える」ことの間に距離があるということも前提されていません。

 しかし、整体の観方というのはこういうものです(体癖や体の観察などにおいて)という知識を得ても、多くの場合、すぐに教わったのと同様に観えてくるわけではなく、同じことができるわけでもありません。

 このように、ものの観方だけでなく、それを学んだり観察したりできるようになるまでの過程までが違うのが、野口整体と西洋医学の相違というものなのです。

 しかし、「違う」ということをまず知らなければ、スタート地点から間違ってしまうことになります。これを野口先生は「最初のボタンの掛け違い」とも言っています。まず「知る」こと、そして自分の体験と身体感覚を通じて理解を進め、腑に落ちる時を待つ・・・という過程があるのです。