正体・正心・正気―東洋の身心一元性 2
感覚と潜在意識
感覚には外界を感受する感覚(五感・外界感覚)と、身体の内側(体の状態)を感じる感覚(身体感覚)(註)があり、自分の状態を把握し、健康を保つ上では身体感覚が重要となります。
しかし、体が偏ると(潜在意識化した情動に支配されている時。本人には分からないことが多い)、外界感覚も身体感覚も影響を受け、「鈍りと過敏」が起き、感じることに歪みが生じるのです。
たとえば「食べ過ぎ」というのは、味覚の鈍りと満腹感の鈍りが起きている時にするもので、不満を食べることで充たそうとしたり、過剰に食べなければ気が済まなくなったりという、感情抑圧の反動などにより、要求の取り違えや食べ方と食べ物の質の面での乱れが起きているのです。大体、「ふと気が付いたらこんなに・・・。」という状況で、頭がぼんやりしていることが多いものです。
金井先生は、
心焉(ここ)に在らざれば、視(み)れども見えず、聴けども聞こえず、食らえども其の味を知らず
(心がここにない上(うわ)の空の状態では、見ても正しく物を見ることはできない、聞いても正しく音を聞くことはできず、食べても本当の味を知ることはできない)。『大学』)
という儒教の言葉を引いて、五感と感受性の話をすることがありました。未刊の原稿でも、これについて述べています。
総じて感覚は常に一定というわけではなく、鈍ったり、過敏になったりするものです。この感覚を正常にするために体を整えたり、心を落ち着けたり、という「正体・正心」を保つ必要があり、こうして正気を保つことができるのです。
野口先生は「感受性の奥に心があるのは人間だけ」(『月刊全生』「健康に生きる心」)と言います。先生がここで意味する心は、体とくっついた心=潜在意識のことです。
昭和八年の「いのちの真相」で、野口先生は感覚と自分の見ている世界について、次のように述べています。
この世の中は、相対の世界と申しまして、自分の感覚によつて、その感覚を眺めている世界なのです。実質に触れてゐる世界ではないのです。老眼鏡をかけると、同じものでも大きく見えるやうに、各自の感覚が造り出してゐるので、心に美を画かぬ人には、美術家の如くに見ることはできません。折角、帝展に行つても、何だ、お尻の陳列ぢやないか、などと云ふて空しく帰る人すらあるではありませんか。同じ湯へ入つても、一人は熱いと云ひ、他は微温いと云つたり、又同じものを食べても、一人は美味しいと云ひ、他の一人は不味いと云ふ風に、実相を見ることができずに、各自の感覚を眺めるだけなのですから、本当のことは解りはしません。
「いのちの真相」で言う感覚は「五感」、外界感覚です。外界感覚は個々の感受性によって感じることが変わるのですから、一定不変の客観的世界というものは、現実にはないのです。
さらに金井先生は「気の感覚」を説明するものとして「共通感覚」を上げていますが、また後日。
今回は、感覚の説明だけにして、次回に続きます!
(註)身体感覚 体性内部感覚(皮膚感覚・深部感覚・平衡感覚・内臓感覚(内臓→脳へ))と、四肢の運動感覚(体性神経の求心性回路。筋肉・腱→脳へ))があり、この二つを合わせて全身内部感覚(=身体感覚)と言い、身体の情報を脳へと伝えている。