感覚と心の世界のつながり―体癖論Ⅰ 3
注意が集まる方向に感覚が働く
今回は、感覚の働き方と体癖についての内容です。
感覚の奥には「要求(心)」があり、それに沿った方向に感受性が敏感に働くため、人によって感じることに相違があります。
要求が体を動かし、感覚器を働かせているのです。その要求の方向性が体癖の中心になっているのですね。
自然な状態なら、要求と行動・感覚がひとつになっており、体力を発揮することができます。しかし、それが離れてしまうことが現代人は多いのです。要求を育て、それが素直に表れるよう生きていく教育がないことがその理由です。
しかし野口晴哉先生は「要求と行動を一緒にさせるということが体力発揮の根本的な問題である」と考え、そのために体癖研究を行ったのです。
それでは、今回の内容に入ります。
(金井)
体癖は、師野口晴哉が個人を理解するために開発した人間の観方で、身体的特性(体運動・体型)と感受性を一つのものとし研究した体系が、体癖論です。
例えば「視覚」というものも、実はかなり個人差があり、人によって見えている世界には相違があるのです。同じ対象を見ていても、色に敏感、形に敏感、量に敏感というように、対象にある要素の何を強く受け取っているかが、体癖により異なっているのです(無意識的な感じ方に拠っている)。
科学の感覚の捉え方は、五感(視・聴・嗅・味・触覚)を感受する「感覚器の機能」によって「外界からの刺激を受け取る」という受動的(心とは直接関係がない=客観的)なものですが、野口整体では、その人の潜在意識(体癖・学習歴)が、主観的に外界を受け取っている、と捉えています。
そして、外界とその人の心の世界をつなぐ「窓」として感覚を捉え、何に敏感(あるいは鈍感)なのかを通じ、その個人を理解しようとします(ここでの感覚は、体が伴っていることで潜在意識・無意識のはたらきが関わる)。
感受性がはたらく時には、無意識的な「主体性」がはたらいており、それで「対象にある要素の何を選んでいるか」が、体癖的感受性というものです。
科学的価値観を重視し客観性や合理性に偏り、主観を見失っている現代人が、体癖を自覚することは、自身に「勢い」を喚(よ)び起す(「身体性」の能力を活用する)ための最初の一歩となるのです。
師野口晴哉は「いのちの真相(一九三三年)」で、個人の世界観について次のように述べています(『野口晴哉著作全集第一巻』)。
この世の中は、相対の世界と申しまして、自分の感覚によつて、その感覚を眺めている世界なのです。実質に触れてゐる世界ではないのです。老眼鏡をかけると、同じものでも大きく見えるやうに、各自の感覚が造り出してゐるので、心に美を画かぬ人には、美術家の如くに見ることはできません。
外界と心をつなぐ「窓」としての感覚が体癖から生じているのです。
「感受性の傾向」を知らない(自分本来の感覚を忘れている)ことで、自身の生き難さの因(もと)となっていること、さらに、生き難さを乗り越えていく「勢い」を喚び起こすために、「体癖を理解する」ことについて述べて行きます。