野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

近代化と「闘病」―風邪の効用 3

大正・昭和に近代科学的病症観が定着した

 野口昭子夫人著『朴歯の下駄』にも載っている、昭和9年に発行された『霊療術聖典』(復刻・八幡書店)という本には、野口先生の師・松本道別師の人体放射能療法を始め、当時活躍していた15人の霊療術を紹介されています。

 当時は「精神」と「霊」「気」が同義と理解されており、「気」による野口法(野口整体)は「精神療法」と呼ばれていました。今は精神というと、意識や理性を思う人もいますが意味が違ったのです。「霊」も今ほどオカルト的に理解されていたわけではありません。

 この霊療術の多くに活元運動に類似した霊動法的な運動療法(修養法)が含まれています。また、ほとんどが神経衰弱(神経症)と呼吸器病(気管支炎や結核など)を念頭に置いた内容で、いかに多くの人(特に若い人)が不安と焦燥に陥っていたかが伺えます。

 その中に野口晴哉先生の野口法(当時22~3歳)もあり、野口先生書下ろしの原稿が収録されています(紹介文に「同氏の原稿甚だ大部なるため・・・割愛した箇所も存する」とあり、金井先生みたいだ!笑ってしまいました)。

『朴歯の下駄』によると、野口先生も若い時「肺結核の三期でもう手遅れだ」と言われたとのことで、昭子夫人はその後の野口先生について次のように述べています。

「両肺が真っ黒でも、今までも、今もこうして生きているではないか。・・・だから自分の体のことなんか考えず、人に愉気し、活元運動を誘導することに打ち込んだ。

 半年ほどして、その医者に会った。診せろといわれて、診せたら、頸をかしげているんだ。両肺とも何ともないって・・・。」

 金井先生は下巻で、野口先生が闘病という言葉を出して「大正時代に作られたこのような言葉があることによって、自然治癒が妨げられる」という話をよくしていたと述べています。

 そして、この闘病という言葉は誰が使い始めたのかをインターネットで調べていたら、金井先生の郷里、愛知県蟹江市出身の、東京帝国大学で医学を修めた推理作家、小酒井不木(こさかい ふぼく)という人に行き当たりました。

 小酒井氏は東北帝国大学医学部教授でしたが、生涯呼吸器を病み、大正15年(1926)に『闘病術』という本を出していたのです。

 下巻で、金井先生はこの顛末について、

・・・西洋医学に通じていたことから闘病という発想を得たのでしょうか。ともかく、私はとても驚いたというわけです。

・・・病症を悪視し、闘う対象としたのは、近代医学の機械論的生命観によるものです。

と述べています。

 

 明治時代に猛威を振った伝染病を予防するため、国家をあげて誠意用医学に基づく衛生思想(病原菌、病理、悪い空気や栄養等の知識)を普及させていたのがこの時代でした。

(衛生とは健康をまもるという意だが、今日では単に清潔・殺菌のみを意味する場合が多いのは伝染病が流行したことによる。)

『禅文化としての野口整体 Ⅰ活元運動』では、近代西洋医学の衛生思想について、次の引用がされています。(『野口晴哉著作全集 第一巻』昭和八年。( )は金井先生)。

新しき衛生思想普及の必要

 過去に於ける一切の衛生方法は、総て物質的であり、避苦的であり、外面的形式本位であって、その齎(もたら)した結果は、恐病思想(病気を、ただ恐いと捉える考え方)の蔓延と、之に基づいた生活による国民の精神的、肉体的抵抗力、成長力を委縮衰弱せしめた(人々が病気を恐怖したことで免疫力の低下を招き、人間的な成長を阻害した)以外の何ものでもない。

 而して現在の如き病弱者、無気力者の世界を現出せしめ、あらゆる国家的、社会的、個人的行詰りの根本的原因を造ったのだ。

(金井)

・・・ここ(衛生思想)には「生命に具わる抵抗力を発揚する」ための教育はなく、偏(ひとえ)に「恐怖心を煽る宣伝になっていた」と師は述べているのです。 

 野口先生は『霊療術聖典』で、「科学的迷信のもとに、日々、戦々恐々と扶南の裡に陽を送りつつある人々が、もし不安なき日ありとしたならば、病菌を忘れ、悪い空気、寒風、食物等々の害毒を忘れた時だけに相違ない。」と述べています。

 病気は怖いもの、闘うべきものという観念はこの時代に定着したのですね。

つづきます。