野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

気は心と体をつなぐもの―風邪の効用 7

身心分離と「気」 

 気・自然健康保持会HPには、野口晴哉先生が「我々の体には、自分の生命を保つ機構が備わっている。自分でその力を発揮して環境に適応し、その変化に対処してゆくようにできている。」と説く、目的論的生命観の端的な内容として「整体指導の目的」(『月刊全生』1969年)が掲載されています(目的論としての野口整体の思想)。

 野口先生はこの「整体指導の目的」の中で「気」について言及し、次のように述べています。

・・・人間の体を研究して行く場合は、観えない、心にあるか体にあるか判らない、今までの学問にもなかった、気というものが重要な役割を果していることに気付かねばならない。

 物と物の並び方は科学で割切れるけれども、そうでないものも世の中にはあるのです。

・・・人間の体の中の出来事にしてもそうで、気の存在は無視できないということを根本において、気の問題を追及してゆきたい。気というものが判らないと、生きている人間の体の働きは判らないからです。 

「気」というのは生命のはたらき、目的論的機能と一つのものなのです。金井先生は先の野口先生の文章に次の注釈をつけています。

野口先生は亡くなる(一九七六年)一年ほど前から、本部の講義ではよく「これからは気の時代に入ります」と言われていました。それから三十年余を経た現在、その「波・うねり」を強く感じることができます。

 また亡くなられる(六月二十二日没)直前、箱根での中等講習会(五月末)では、「これからは気で教えます」と言われました。

「気は心と体をつなぐもの」であり、意識が頭に偏った状態では「気」は理解することができません。それは「身体」により、理解できるのです。

 金井先生は中巻と下巻で、「野口法の概要」という昭和八年の野口先生の文章を引用し、生命が合目的性を発揮する上での妨げとなる「鈍り」と身心分離についてについて述べており、引用文の前に「師がここで言う心とは「気のはたらき」を意味しています。」と言葉を添えています。

 野口整体が霊療術(霊学)に起源を持つことは少し前に述べましたが、この「霊」という言葉は「気」と言い換えることができます。霊学は、当時残っていた日本の「気」についての智(儒・仏・道・神道、武術など広範にわたる)を近代に活かす試みだったのです。

 しかし、『霊療術聖典』に載っているものだけで15団体、他に様々あったようですが、その多くは途絶えています。

 野口整体は「気」とは何かを現代に伝える上で重要な役割がある、と直観した金井先生は、それを継承し「目的論」という思想によって伝えようとしたのです(後に詳述)。では最後に、野口先生の文章を紹介します。

野口法の概要

…麻痺とは刺戟を感ずること鈍く、之に反応する働きが鈍き状態を云うのです。つまり体から心が去った状態です。体から心がいなく(体に気が通わなく)なれば、残るのは体ではなく、物です。物は痛まず、苦しまず、悩まざれど、どしどし冒され腐る。抵抗し、恢復することを知りません。

・・・体の感覚が鈍るということは、人がいのちを保つことを困難ならしむるものです。それ故、私はいのちを物の方面からのみ見ていてはいけない、心の観察を外にして本当のいのちに触るることは出来ないのだ、と強く主張するものです。

 今の医学は、余りにも物質的に過ぎます。いつも心の働かなくなった体のみを対象として進めらるる現代医学の研究方針は、決して医学として感心した態度ではありません。(心身二元・機械論的近代医学の立場のこと)

…人体が物質化する理由は、体から心が離るるためです。又心が一部分に滞って感覚の伝導が公平に行はれぬためです。ですから、全体が一つにならず、ために合目的性が発揮されない状態になってしまうのです。

  しかし、心滞ることなく、体の働き鈍ることなければ、人は如何なる障害刺戟にも反応し、抵抗することが出来るのです。毒を薬に変ぜしむる位、簡単なことです。冷い風とか、病菌とかにそう易々冒さるるものではありません。毒物が何です、病菌が何です、私らは生きてゐるのです。

…今の衛生法は、第一その文字から気に入らない、外を見て裡を見ない。病菌の恐しさを知らしめて、自分の力の強さを悟らしめない。だから、衛生の道を知ると、恐怖が起るのです。

 恐怖して心が縮まるから、体が働かない、体が働かないから、体、物と化して恐る恐る物に冒されてしまうのです。凝るのが悪いのです、心の滞りが麻痺の本体です。