野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

開放系の人間観と自然治癒力―風邪の効用 18

身心一如の東洋的生命観と天風哲学

 以前、上巻『野口整体と科学』についての内容で紹介した石川光男氏は、子どもの頃から体が弱く、学生時代からいろいろな健康法を学ぶうち天風哲学に出会いました。

 そして「心と身体を別々に考えてはいけない」ことを知り、西洋医学の考え方と東洋文化の伝統の違いに深く興味を持ったとのことです。「天風哲学・心身統一道」について、氏は次のように述べています(『生命思考』)。

ヨガの修行で得た生命観

 人間は機械と同じで、具合が悪くなれば、トラブルを起こしている部品(たとえば腸や肝臓など)だけを修理(治療)すれば元通りに動き、生命のあらゆる営みは原子や分子のような細かな構成要素に還元していけばすべて説明できる ― これは西洋医学をもとにして天風先生がかつて身につけていた生命観であったにちがいない。

 天風先生は、医学者として、機械論的世界観と要素還元主義的な方法論に支えられて発展してきた近代科学によって生命を捉えていたわけである。

・・・こうした世界観から生まれた生命観は、心とか意識、そして自然といった周囲の環境を体と分離した存在とみなしていた。生命は閉じられた系(クローズド・システム)の中で動いている独立の現象である、という考え方である。そこには心や環境が生命の営みと密接な関係を持っているという発想はない。

 ところがインドや中国の伝統的な世界観では、仏 ― 人間 ― 生物 ― 無生物の間には決定的な断層がなく、すべてが連続している(連続的自然観)。人間の心と体を分離する二元論や、人間は自然とはかけ離れた特別の存在であるという発想(非連続的自然観)は東洋にはない。つまり開かれた系(オープン・システム)として人間を捉えているのである。東洋で古くから言われている「心身一如」という表現がこれをよく表している。

 デカルトパラダイムで育った天風先生が、ヨガの修行で得た生命観こそ、オープン・システムとしての「心身一如」だった。憎しみや怒りといった感情は心の領域に属することで、それは宗教のテーマにはなっても医学が扱うことではない、とされていた。いまもこの考え方は根強い。それだけに、天風先生がインドでの体験からつかみとった生命観は異色だった。

…心と体は互いに相補的である、との考え方を医学に取り入れるとそれまで説明のつかなかったこともよく見えてくる。怒りや憎しみといった感情が不快感を引き起こし、精神の調和を崩す結果として、体の全体にマイナスの影響をもたらすことは、自律神経系統の働きやホルモンの分泌の変化によって説明がつくこともわかってきた。怒りや憎しみは生理学的に見ても生体機能を狂わせる原因となっている。

 体にとっての精神的な毒物は捨てる、つまり排泄すればいい。役に立たないどころか生体の機能を狂わせるような感情をいつまでも貯め込んでおくのは、おろかなことである。そして人間には精神的な毒物を捨てる機能も備わっている。それなら、その機能を生かしてどんどん吐き出していくことである。

 開放系というのは現代物理学の考え方で、今は「複雑系」と言うようです。この石川氏の文章に沿った金井先生の文章を上巻第二章から紹介し、今回は終わりとします。

(石川氏は)「自然界がひとりでに秩序を形成するのは開放系のみ」と述べていますが、自然治癒力、また「疲労回復力」は、「生物の秩序形成」機能であり、これは「開放系の機能に由来する」と表現することができます。

生物、ここではとりわけ人間が、開放系として機能することを考えてみます。「開放系として機能する」とは、秩序形成能力が高いということで、第一には、日々の身心の疲労が睡眠によって回復することを指します。それには、何より「脱力」が肝要なのです。身体の脱力というものは、実は、これは心に、それは感情のはたらきに大きく関わるのです。

・・・「身心」の弾力が良い人は、負の感情(怒りや不安など)が起きても、その思い(想念)がじきに離れるものです。その思いにしばらくは支配されていても、体が弛み心が動くと、負の想念がすっと自分から離れる(=無心となる)のです(天風哲学は、この意義を明確に示している)。

そのような人は、個人指導で、始め「偏り疲労」があっても、情動について私に話した後、良い活元運動が出ると、途中「先程話したことが、今、どうでも良くなりました」などと言うことがあります。この時、この人は十分に「開放系」へと変化しているのです。

それは、先程までの硬張りが弛み、身体に気が通り明るくなるのです(時に「憑(つ)き物が落ちる」と表現できる)。「身心」が、このように弾力を取り戻すことが「個人指導」の目的です。

 そのため私の個人指導では、相手の身心が「開放系」であるかどうかが重要なのです。

 このように、人を、環境との「関係性」(会社や家庭などでの人間関係)において捉え、その人の「心のはたらき」を観ています(=「生活している人間」として観る)。

 しかし、このような視点が全くない身体の見方は「閉鎖系」として、換言すると「機械論」的に見ていることになります。

 開放系という概念は、「気」を中心とする野口整体の人間観の新しい説明として特に役立つものと思います。