野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

「腰・肚」文化は人間的成熟に向かうためにあったー気の思想と目的論的生命観 13

成長する可能性を秘めているから「修行」がある

 (金井)

 明治政府は、西洋近代医学を国家医学と定め、江戸以来の伝統医療を正当な医療から排除しました。

 こうして西洋医学が普及したことで、現代では「体は専門家に治してもらうもの」、また「勝手に毀れるもの」という機械論的生命観が蔓延してしまいました(この背景には、西洋医学が解剖学から発達しているという面がある)。

 さらに、科学的に高度に発展した現代社会は、本来の「人間の自然」である「成長・成熟」へと向かうことを困難にしました。

 これは世界的な様相のようですが、文明の高度化に伴い、生活の中で身体を使うことが少なくなったことに加え、日本における敗戦後の科学的教育と「腰・肚」文化(=道)の喪失は、「成長・成熟」をさらに困難なものにしたと考えます。

 体丸ごとで生きていない、頭が「感情や魂から離れている」ことで、主体性を発揮していないというのが「肚」を失った現代的な特徴です。これは、科学的身体観・生命観の基に心身二元論があるからです。

 伝統的な「腰・肚」文化と東洋宗教が持つ「修行」という人生観を喪失したことは、日本人の「宗教心の喪失」と言うべきものと考えています。

 私はもとより、「整体」とは、道元(註)の身体を心より上位において重視する態度「身心学道」と同様であると思ってきました。

 これは調身・調息・調心に通じるもので、禅や「腰・肚」文化とは統一体を持って生きることであり、「統一力」を行使して生きるというものです。

 私は、野口整体の持つこのような観点が深い意味でまだまだ多くの現代人に理解されていないのは、「腰・肚」文化の喪失と機械論的生命観に無意識的に支配されているからと考えるものです。

「統一力」発揮のため、脊髄行気法に目標を置き、「立腰」のための「正しい正坐」ができるよう導くのが野口整体金井流です。立腰は「闊達(物事に捉われぬこと)」であるために肝要なことです。

 日本の伝統的な「修行」と「腰・肚」文化が失われ、先述のように「心身の問題」が起きている現代、無意識(生命)の働きを理解し、生命に対する信頼を取り戻すためには「目的論」が必要と考えました。

 野口整体は、近代科学発達以前の伝統的な生命観であった目的論を、「後科学の禅(科学の後にやってくる禅)」として現代的に展開させたものと言うことができます(ここには、もちろん、東洋的な自然観が、そして師野口晴哉の独創的な生命哲学が展開されている)。

 

 日本には「目的論」という言葉は無かったのですが、「腰・肚」文化という伝統があり、長きに亘り「人生は修行である」という通念がありました(私が子どもの頃まで)。

 この時代まで、このような身体行を連想させる目的論的な教えがあったわけですが、敗戦と西洋医学全盛の時代を通じてこれを喪失し、現代人に適合した「生きるための思想(宗教)」がない今日では、機械論的生命観のみとなりました。

 私は、戦後教育(家庭教育を含む)で育った「団塊ジュニア」と呼ばれる世代の若者との、精神的基盤の大きな違いによる溝をどう埋めるかが課題と考え続けて来ましたが、この溝とは、目的論的生命観(修行的人生観)と機械論的生命観(科学的世界観)の間の溝であったと直観し、ようやく「謎が解けた」という思いがしたのが、2010年の5月8日の朝でもありました(2019年5月8日ブログ参照)。

 ドイツの哲学者・心理療法家のデュルクハイム(1896~1988)は、次のように述べています(『肚 人間の重心』)。

序章

ノイローゼ(神経症)の背後に、人間一般にかかわる問題が潜んでいることが、今日次第に明らかとなっている。すなわち、成熟の問題である。成熟ということを最も深い意味で理解したとき、それは病人にも健康な人にも同じことを意味している。

それは、人間を自己の本質へと徐々に統合していくことであって、その点で人間は人間存在そのものに関与するのである。ノイローゼの人とは、成熟が特別な形で妨げられている人のことである。

未成熟は現代の癌である。成熟することができないことは現代の病である。

 ここに「未成熟は現代の癌である」という言葉がありますが、このような原因は、物事の科学的観方・機械論的世界観のみの現代的な風潮に原因があると考えています。

 それは、体の症状を機械論的に「物理的な原因(物質的因果関係)でこうなった」と、また「外部からのストレスでこうなった」とだけ考えること、これは「私自身は無関係(責任がない)」と捉えることですが、これでは生活における精神の向上・人間的な成長がないのです。

 目的論的に捉える、それは、現象(人間関係において起きた身体や精神の症状)を自身の心・感受性との関係において考えることで、「自身の向上」に向かうことができるのです。