野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

コンプレックスと自我―風邪の効用 26

コンプレックスと向き合うための自我の強化

 金井先生は、下巻でNさんが個人指導を受け始めたころの心理について次のように述べています。 

ユングの「コンプレックス」は、「感情複合」と訳されています。第五章で述べたNさんの心理的な病症、生理的な病症も、ともに「コンプレックス」によるものだと言うことができます。

「感情複合」とは、さまざまな感情が絡み合っている「葛藤」を意味していますが、日常的に経験する「感情」の動きを窓口として、自身を知り、考え、「自我の強化」が図られることで、「自我」が「コンプレックス」に向き合うことができるのです。

  Nさんが自分と病症、そして感情のはたらきについての理解を深める一助となった教材には、河合隼雄氏の著書『コンプレックス』(岩波書店)の文章がありました。長いですが引用します(ブログ用の改行あり)。

 

 

4 心の相補性

フロイトにとって、コンプレックスは自我にとって受け入れられず抑圧されたものであり、コンプレックスの表出は何らかの意味で病的なものと見られがちであった。

 それに対して、ユングはコンプレックスの表出はマイナスの面もあることを認めた上で、そこに人格の発展の可能性として、目的論的な観方を導入したのである。彼の言葉を引用する。(『魂の探究者としての近代人』)

「コンプレックスは広義においての一種の劣等性を示す。──このことに対して私は、コンプレックスをもつことは必ずしも劣等性を意味するものでないとただちにつけ加えることによって、限定を加えなければならない。

コンプレックスをもつことは、何か両立しがたい、同化されていない、葛藤をおこすものが存在していることを意味しているだけである。── たぶんそれは障害であろう。しかしそれは偉大な努力を刺戟するものであり、そして、多分新しい仕事を遂行する可能性のいとぐちでもあろう。」

ユングは心の相補性(補償)という点に特に注目し、意識の一面性を補う傾向が無意識に生じるということは、自我はあくまで、意識の統合の中心であっても、心全体(意識も無意識も含めて)の中心ではあり得ないと考えはじめた。

 そして、彼は東洋の思想にふれ、特に中国における「道(タオ)」の考えが陰と陽の対立と相互作用を包むものとして生じてきている点に大きい示唆を受け、「自己」という考えをもち始めたのである。

 すなわち、自我があくまで意識の中心であるのに対して、われわれ人間の心全体の中心ということを考えざるを得ず、それを「自己」と名づけたのである。

 これはたとえてみれば、人間の心という球の中心が自己であるのに対して、その球の表面に存在するひとつの円としての意識の中心が自我なのである。

・・・コンプレックスは、新しい仕事を遂行するためのいとぐちともなろうとユングはのべている。ともすれば小さく固まろうとする自我に対して、コンプレックスという発展のいとぐち(苦難でもある)をつきつけ、自我がより高次の統合性を志向してゆくようにするプロモーター、それが自己なのである。

…すべてのコンプレックスは「もう一人の私」たり得る可能性をもっている。そして、それらすべての「もう一人の私」の奥深く、これらのすべての人間の統合者である自己が存在する。この自己は「もう一人の私」の中の最高位につくものであり、「私」をも超える真の「私」なのだということもできる。

(金井・これは、仏教で説く「本我」、また「真我」である) 

 自我というのは、ともすれば「小さく固まろう」とし、自分を守ろうとします。自分は正しく相手が悪い、という思いに執着したり、反省や変化を受け入れようとしない傾向も持っているのです。

 自我は本来、外界と交渉し適応することで「自己実現」を図るための機能ですから、無意識はそのような自我をさらに大きな自我へと成長させ、自己実現の方向に適応させようとするのです。

 その過程で起こるのが病症や人生上の問題であるというのがユングの「目的論的理解」です。

 金井先生は、コンプレックスに対する主体的取り組みについて次のように述べています。  

囚われている事が良いとか悪いとか判断するのではなく、囚われていた結果、どういうことが起こったかを自分が理解すれば、「人間は変わる」と思うのです。

 囚われていたことが解っても、それによっての気付きと、向く方向を自ら定める事が出来ない人は、それはそれまでの事です。これは本人の「自発性(整体であろうとする意欲)」によるものなのです。

・・・体を開墾して心を耕すために必要なことは、「鋤(すき)(土を掘り起こす農具)」としての「自我(生きる意欲を持った自我)」を育てることです。身体に起きていることを理解し、自身の問題として取り組むことができるようになるには、自分の内を眺め、「自身との対話をする」という主体的な自我の態度(積極的受動性)が必要なのです。

この主体としての「自我」という「鋤」を使って、身心を一つのものとして耕していくのが野口整体なのです。