野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第五章 東洋宗教(伝統)文化を再考して「禅文化としての野口整体」を理解する三 2

2 ユングの「自我から自己への中心の移動」― 東洋に学んだユング自己実現「個性化の過程」を説いた

  この分離によって起こっている身心の問題を解決するために、ユングは「自我から自己への中心の移動」を提唱するようになりました。

 ユングは、意識と身体(無意識)をつなぐもの、また個々の人間と人類という生命全体をつなぐものとして、「自己(Self)」を発見したのです。「自己」とは道教や仏教、またヨーガにおいて、東洋で伝統的に求められてきた「本我・真我」というものです(ユングは『自伝1』(みすず書房)で「自己とは万物への共感性の基盤」であると述べている)。

 彼は、ヨーガ・道教・仏教に学び「個人の無意識の奥には集合的無意識がある」と述べ、心の成長と治療法を一つにした「自己実現」という「道(みち)」を見出しました。

 先の科学文明の問題・人間の「全体性の喪失」とは、自己から分離した自我となっていることです。このままの自我では自己実現が図られない、つまり、たとえ近代的に成功しても、心(魂)の満足が得られなかったり、人間としての成長がなかったり、生きる意味を見失ったりすることになるのです。ユングは、ここに本来的な自己の実現(意識の枠を超えて)を説く必要があったのです。

 ユングは、キリスト教の伝統から失われた「身体に内在する神性」を発現する ―― コンプレックスの支配から自身を解放し、その奥にある自己(無意識の目的論的機能)を中心として生きる ―― 道が、東洋宗教にあることを発見したのです。

 彼は「東洋の哲学者は深層心理学者ではないかと思う」と、次のように述べています(『黄金の華の秘密』ヴィルヘルム/ユング著 湯浅泰雄訳 人文書院)。 

ヨーロッパの読者のための注解

キリスト者は(心の平安のため)、キリストの恩寵を望んで、すぐれた神のごとき人格に従う。これに対して東洋人は、(心を呪縛するものからの)解放は個々人がみずから行なうわざによって(自身の内に)起る、ということを知っている。完全な「道」は、個人のうちから成長するのである。

『キリストのまねび』のやり方は、長い間たつと欠点が生まれてくる。というのは、われわれは最高の「意味」を具現した一人の人間を神的な模範として崇拝するために、形だけの模倣におちいってしまい、われわれ自身の内にある最高の意味を具現すること ― すなわち本来的自己の実現 ― を忘れてしまうのである。

 (註)『キリストのまねび』(『キリストにならいて』)

中世ドイツの神秘家トマス・ア・ケンビス(1380―1471)の主著。修道士がキリストの先例に従って生活するように勧めた教訓書。カトリック霊性の本として識字階級に広く読まれた。

 「自己」とは、人間を成長へ、他者とのつながりへと向かわせ、心の全体性を発揮しようとする無意識の自律的なはたらきです。ユングは意識・無意識を合わせた心全体の中心である「自己」を実現することが人間完成への「道」と考えたのです。

そして「自己」へと向かう道筋は、「個性化の過程」であるとユングは言います。人間が生きる意味を知り、本当に個性的に生きるために「自己」が必要なのだと言うのです。

  野口晴哉から、「全生」思想を学んだ私は、このユングの思想に深く共感を覚えました。

 野口整体では「要求に沿って生きる」ことを良しとしますが、「要求」とは「自己」による導きと言えるもので、「自己」とは、丹田にそのはたらきがあるのです。

 師は「意識が閊えたら、意識を閉じて無心に聴く」と、活元運動を行う心を説きました。これは換言すると、自我が「自己」との統合性を取り戻す、ということです(註)。

 瞑想的な意識を鍛錬し、中心(丹田)を把持することで、無意識との一体性を保持することができ、このことで「生きること」を確かなものにするのが「肚」の目的であったのです(道を体現するために「腰・肚」文化があった)。

(註)無意識の補償作用

 意識と無意識は相補関係にあり、心の全体的 な調和を保っている(意識と無意識の相補性)。しかし自我の偏った態度や、意識が一面的になりすぎたとき、それを相補うはたらきが無意識内に生じ、その結果、心の全体的調和を求める方向にはたらく(生き方を修正しようとする=自我の再構成)。これが無意識の持つ目的論的機能であるとユングは考えた。

 師野口晴哉の、活元運動における「意識が閊えたら、意識を閉じて無心(無意識)に聴く」という言葉は、無意識の補償作用を前提しており、また「無意識・たましい」に対する信頼が込められている。