野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

理性に偏った自我から、「感ずる」自我へ―風邪の効用28

無心と「感ずる」ことのできる自我

 金井先生は、野口整体の活元運動、整体指導における身体的側面が、心に関与するためにあることを常に説いていました。

 今回から、現在の自分の心のあり方=自我のあり方という観点から、無心になることを通じて、今の自我を初期化し再構成していくことについての内容に入ります。今回は中巻『ユング心理学野口整体』、次回は下巻からです。

(金井)無心による「感ずる」はたらき

 現代の大学教育に準じた高校教育の内容を修することは、自ずと近代科学の勉強のみであると言うことができます。

 それは、大学では自然科学・社会科学・人文科学のどれかに全ての学部・学科が含まれており、大学で勉強することは全てが近代科学、あるいは科学的なものだからです。

 ですから、科学が理性的思考で成り立っている以上、現代の教育で身につけることが出来るのは、一部を除いて全て「理性的能力」なのです。科学的理性とは、「数値化」や「論理性」によって「客観的」に観察し、「合理的」に思考し説明できる能力です。

 この能力が高いことは良いのですが、問題なのは、世の中の全てをこれ(理性的能力)によって把握し、説明し得るものではないということです。

 上巻で紹介した井深大氏は、

・・・今ある教育学というものが、知的に理論的に物事を解釈することだけが目的や方法になってしまっていて、感性といったものを受け止める受け皿が全然ない状態にある(『あと半分の教育』ごま書房)

と、戦後の教育を批判しています。現代の教育がこのようですから、一般的に、高等教育を受けた全ての人が「理性」に偏っているのです。

 このことの大元には、科学の理性至上主義がありました。科学の思考的枠組みであるデカルトの近代合理主義哲学では、「感覚」と「感情」を切り捨てているのです。

 対象を認識する上で、「感覚」や「感情」によって判断されたものは科学にはならないのです。科学では、「感覚」の中で使われているのは「視覚」だけなのです。

「感覚」「感情」という主観的なものは当てにならないということで、「理性」による認識だけが真実であるとされました(感情が静まっている時、感覚が良いはたらきとなる)。

 それで、「科学」が発達した社会では、「感じる」はたらきがとくに意識されておらず、考えることばかりになって行ったのが現代人です。論理的にではなく、直感的に物事を把握する能力を、私は「感性」と表して「理性」以上に重要なものと考えます。

 とくに自分のことを知るには、まず「感ずる」ことから始まるからです(感情が静まっている時、感覚が良いはたらきとなる)。

 師野口晴哉は次のように述べています(「晴風抄」月刊全生増刊号)。 

最初に感ずるということがある。そして思い考えるのである。

 

感ずることを豊かにする為には、その頭のなかをいつも空にし、静かを保たなければならない。頭を熱くしていては感ずるということはない。 

 師はこのように、考える前に「感ずる」ことの大切さを説いていましたが、「その頭のなかをいつも空にし」とは、禅的な「無心」なのです。

「理性」が考えるはたらきなら、感じるはたらきが「感性」です。この「感性」を豊かにするには「感覚」と「感情」が発達することです。思考も「感覚と感情」も意識の働きですが、「感覚と感情」は体寄りのもので、これを使わないと、意識が無意識(身体)から離れるのです。ここに、科学は「身体性」から離れる(註)という特性があるのです。

(註)科学は「身体性」から離れる アメリカや日本で起こった「ヨガブーム」、続くアメリカでの「禅」などの東洋宗教に対する高い関心は、近代合理主義の理性から「感性」へ、という回帰現象である。