野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第七章 禅文化「道」としての野口整体― 瞑想法(セルフコントロール)と心理療法 一 2

 前回1②の指導例の後、金井先生は河合隼雄著『心理療法序説』から、次のような文章を抜粋し、文末につけてありました。 

近代科学の根本には対象に対する「切断」がある。しかし、この親の場合はあまりにも極端としても、われわれは他人を何らかの方法によって「操作」しようと考えることが多いのではなかろうか。

  このお母さんは、自分も不安になって、「子どもを病状から早く脱出させよう」としたのですが、自分は全くそのつもりではなくても、そこには子どもに対する「切断」と何らかの方法による「操作」があり、子どもはそれを体で感じ、愉気を拒んでいるのです。

 子どもが病症でつらい時、そばにいるのはお母さんにとってもつらいし不安にもなりますが、まず自分の不安に気付き、自分が落ち着くことと、子どもの体の自然としての病症の姿が見えることが、手を当てる(愉気をする)前に必要ということです。

 このお母さんのような人は、今日本人の大多数と言っていいかと思いますが、その背景にあるのは何か、というのが今回の主題です。 

科学の理性至上主義を補う無心による「感ずる」はたらき

  現代の大学教育に準じた高校教育の内容を修することは、自ずと近代科学の勉強のみであると言うことができます。それは、大学では自然科学・社会科学・人文科学のどれかに全ての学部・学科が含まれており、大学で勉強することは全てが近代科学、あるいは科学的なものだからです。

 ですから、科学が理性的思考で成り立っている以上、現代の教育で身につけることが出来るのは、一部を除いて全て「理性的能力」なのです。科学的理性とは、「数値化」や「論理性」によって「客観的」に観察し、「合理的」に思考し説明できる能力です。

 この能力が高いことは良いのですが、問題なのは、世の中の全てをこれ(理性的能力)によって把握し、説明し得るものではないということです。

 上巻で紹介した井深大氏は、「今ある教育学というものが、知的に理論的に物事を解釈することだけが目的や方法になってしまっていて、感性といったものを受け止める受け皿が全然ない状態にある」(『あと半分の教育』ごま書房 1985年)と戦後の教育を批判しています。

 現代の教育がこのようですから、一般的に、高等教育を受けた全ての人が「理性」に偏っているのです。

 このことの大元には、科学の理性至上主義がありました。科学の思考的枠組みであるデカルトの近代合理主義哲学では、「感覚」と「感情」を切り捨てているのです。対象を認識する上で、「感覚」や「感情」によって判断されたものは科学にはならないのです。

 科学では、「感覚」の中で使われているのは「視覚」だけなのです。「感覚」「感情」という主観的なものは当てにならないということで、「理性」による認識だけが真実であるとされました(感情が静まっている時、感覚が良いはたらきとなる)。

 それで、「科学」が発達した社会では、「感じる」はたらきがとくに意識されておらず、考えることばかりになって行ったのが現代人です。論理的にではなく、直感的に物事を把握する能力を、私は「感性」と表して「理性」以上に重要なものと考えます。

 とくに自分のことを知るには、まず「感ずる」ことから始まるからです(感情が静まっている時、感覚が良いはたらきとなる)。

 師野口晴哉は次のように述べています。 

晴風

最初に感ずるということがある。そして思い考えるのである。

・・・・・・・・・・・

感ずることを豊かにする為には、その頭のなかをいつも空にし、静かを保たなければならない。頭を熱くしていては感ずるということはない。

  師はこのように、考える前に「感ずる」ことの大切さを説いていましたが、「その頭のなかをいつも空にし」とは、禅的な「無心」なのです。

「理性」が考えるはたらきなら、感じるはたらきが「感性」です。この「感性」を豊かにするには「感覚」と「感情」が発達することです。

 思考も「感覚と感情」も意識の働きですが、「感覚と感情」は体寄りのもので、これを使わないと、意識が無意識(身体)から離れるのです。ここに、科学は「身体性」から離れる(註)という特性があるのです。

 師は、自然に生きる上で無心がいかに大切かについて次のように述べています(『野口晴哉著作全集第五巻上』養生談義 体における無心)。 

生に於ける無心ということ

吾々の生活における形式、知識、作意、そういったものに吾々は無心に生くることを奪われて、恰も人間は自分の作意で生きているように錯覚してしまったことは、人間の生活を自然から遠ざけた。百花咲く春に笑えず、樹しぼむ秋に静かになれず、計画と作意に追われて汲々として生きている。

無心に花が咲き、無心に蝶が舞い、無心と無心の動きの間に自然が生くる。人間の生くること死ぬこと自然ならざるはない。もう少し静かに生死に処し、自然に生くることを悟らねば人間はいつも苦しんでいなければならない。

空は蒼いのに、陽は輝いているのに、人間はそれを快とする心がない。生死に心を奪われ口も利けない。物に抑えられ自分で作った価値観を背負って軽々生きられない。人間の作ったその時計が人間を縛ること申すまでもなく、人間の作った形式、知識、すべて作意なく生くることを不可能にしている。

生活における無心ということを見直したいものである。

 

(註)科学は「身体性」から離れる アメリカや日本で起こった「ヨ

ガブーム」、続くアメリカでの「禅」などの東洋宗教に対する高い関心は、近代合理主義の理性から「感性」へ、という回帰現象である。