第七章 禅文化「道」としての野口整体― 瞑想法(セルフコントロール)と心理療法 三4
考える前の「感ずる」ことの大切さ
私は、主観を生む二つの要素「感覚と感情」、これを鍛練し「感性」を発達せしめることで、野口整体の指導を行なうことを続けて来ました。これにより自身の世界観は十年ごとに大きくステップアップしてきたように思います。
感覚と感情が発達する(感覚と感情が無意識から分化する)ことで得られる感性が、「意識」と体にある「無意識」をつなぐのです。
しかし、現代の教育は意識の中の「思考」のみが訓練されています。この思考も記憶力中心となっていて、深く「考える力」を養ってはいないようです。
師野口晴哉は「考える」前の「感ずる」ことについて、次のように述べています(『月刊全生』増刊号)。
晴風抄
最初に感ずるということがある。
そして思い考えるのである。
感ずることを豊かにする為には、その頭のなかをいつも空にし、静かを保たなければならない。
頭を熱くしていては感ずるということはない。
感ずるということは頭ではない。
感ずるということは生命にある。
右にあるように、良く「考える」ことができるためには、良く「感ずる」ことが肝要なのです。そして、この「生命」という意味は、具体的には「統一体」ということです。意識と無意識が統合されることで、無意識にある直感のはたらきを得ることができるのです。
そして「感ずる」ことは、外界あるいは他者からの気を受け取ることです。「無心」となって気を受け取ることで、感じ方は確かなものとなるのです。このようにして「感ずる」ことができ、そして「考える」ことは確かな思考となるのです。
師はこのように、考える前に「感ずる」ことの大切さを説いていましたが、これ「その頭のなかをいつも空にし」とは、禅的な生活を意味するものです。
(補)鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』より
禅の修行で一番大事なことは、「二つ」にならない、ということなのです。
私たちの「初心」は、その中に、すべてを含んでいます。それは、いつも豊かで、それ自体で満ち足りています。この、それ自体で満ち足りている心の状態を失ってはいけません。
これは、心を閉ざしてしまう、という意味ではありません。そうではなく、空(エンプティ)の心、それゆえ、つねにどんなことも受け入れる、どんなことにも開かれている、という状態にあります。
…私たちの宗派を開いた道元禅師は、この無限の、本来の心からつねに始めることが、いかに大事なのか、いつも強調されました。このとき、私たちは、本当の意味で自分に正直であり、ありとあらゆるものに共感を覚え、そして、実際の修行をすることができるのです。