野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部 第四章 科学の知・禅の智 一 3

3 外にある物差しと内にある物差し

  ここまで、科学的認識力(感覚器と理性)に対する、儒教や仏教の認識力(身体性)について述べました。

 科学が発達していなかった日本で、伝統的な身体文化(「腰・肚」という型)が存在していたということは、身体性(身体意識)によって、それは東洋宗教の「正体・正心」によって、きちんとした判断を行う文化だったということです。

 これは、頭脳(近代科学)的「理性」に対して、身体(東洋宗教)的「感性」ということになります。

 そして、理性の客観に対して身体性の主観ということになりますが、主観は曖昧さのあるものだけに、身体をきちんとすることで、これを判断の物差しにしていく、ということです。これは野口整体の指導には重要なことです。

 言い換えると「内にある物差し」による認識と判断力というもので、科学の、理性による「客観的」認識というものではないのです。

 科学では客観的であることが重要で(理性を至上とし)、感覚や感情は曖昧なものとして切り捨てており、「科学の物差し」は外にあるのです。

 基本的なものとして世界共通の単位制度・メートル法があります。十八世紀末、革命後のフランスで始まり制定されたメートル法は、地球の円周(円周を四万㎞とした)から出来たということです。

 西洋の近代合理主義から啓蒙主義(註)へ、そしてフランス革命1787年)へという社会的変化は、価値観が科学的になっていったこと(個人主義の台頭から民主主義へ)によるもので、その流れでメートル法は制定されたのです。

(註)啓蒙主義(enlightenmemt)

 啓蒙とは「蒙(くら)きを啓(あき)らむ」こと。英語の「enlightenmemt」は理性の光で照らすこと。あらゆる人間が共通の理性をもっていると措定(そてい)し、世界に何らかの根本法則があり、それは理性によって認知可能であるとする考え方。17世紀後半に英から興り、18世紀の欧州に広まる(措定の措とは、その物事が真実かどうかの検証は今は措く、の意)。

  日本では、メートル法(註)以前は尺貫法というもので、畳の長さ一間(けん)(=六尺)は人一人分なのです。そして西洋でも、ヤード・ポンド法(2014年現在、アメリカで使用)の基には、人間の足の長さ=1foot(3フィートが1ヤード)があり、洋の東西ともに科学以前には、人間の身体が基準にありました。

(註)メートル法 日本では1891年に施行され、1921年それまでの尺貫法が廃止された。本格的な普及は、その使用を義務付けた1951年施行の計量法の後、1959年から完全実施された。

 こうした例で分かるように、科学以前には、何れの国もその国なりの「身体性」が文化の基盤となっていたと考えられます。

 これ(メートル法)は一つの象徴的な話ですが、科学以後は「内にある物差し」を使わなくなったという問題です。

 東洋宗教(文化)は、意識の全て(感覚・思考・感情・身体感覚)のはたらきを用いる「主観主義的経験科学」と換言できるものです(近代科学は「客観主義的経験科学」)。

 野口整体が対象とするのは人間であり、絶えず変化する身体です。人間は一人ひとり違うもので、普遍的な個人など存在せず、そして個人も、時々に違うものです(身体(精神)は絶えず変化する)。

 こういう人間を扱おうという野口整体は、感性に依る主観的判断をするものなのです。