野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

腰・肚の心理的意味―気の思想と目的論的生命観 2

意識と無意識をつなぐための「型」

 日本の身体作法は腰と肚を中心としており、今でも茶道や武道など、様々な稽古事を教える時は、「型」という動作時の基本の姿勢を通じてそれを教えています。

 近代以前は、「型」という定義をしていたわけではありませんが、体を使うすべての場面(家事・農業・建築・工芸など)において、腰と肚の力を使うことを「コツ」「わざ」として教えていました。

 上手な人、熟練した人を「見て覚える」ということは、体の姿勢、使い方を真似することから始まるのです。その要点を集約したのが「型」と言って良いでしょう。

 こうした日本の身体文化を、斉藤孝氏は「腰肚文化」と呼びました。

 金井先生は、この様々な「型」に共通する「腰・肚」を中心とした体の使い方、鍛錬の仕方を、心(情緒)の安定や集中力など心の力を発揮するためのものとして、説いてきました。

 これは、「型」が身についていない現代の日本人は、心の安定を失っているという指摘でもあります。

 身体文化の現代的意義として、身体技能としてだけではなく、普段の生活場面における潜在力の発揮を説くというのは、金井先生の日本の身体文化論の特徴であったと思います。今回はこうしたことについての内容です。

 

(金井)「型の喪失」と日本人

養老孟司氏は、戦後の日本が不信の社会となった(言葉だけが氾濫し心が通い合わなくなった)と指摘し、その理由として明治以降に始まる「型の喪失」を挙げ、次のように述べています(読売新聞 1996年)。

わが二十世紀人―三島由紀夫

…日本の伝統では、身体を通じて人生を深く理解していくことは、先(せん)達(だつ)に学びつつ、一生を賭(か)けるべき仕事だと了解されていたはずである。それがすなわち修行であろう。個々の修行が具体化したものが「道」であり、それが完成したものが「型」だった。

…われわれの文化は明治以降、型を徹底的に失ってきた。大正教養主義はその典型的な表れである。

  大正期には「大正教養主義」というものがあり、明治に続く近代化の流れの中で、知的青年たちが、西洋的な哲学、芸術など、広い教養を身につけることで人格を高めることを目標にした、思想、文化の傾向を意味しています。

 このような近代の学知(科学知)は理性を発達させ、人間の心と分かちがたく結びついている身体の可能性を軽んじ、身体が持つ繊細微妙さや豊かさを失う傾向が強いものでした。

 しかし日本の伝統文化「道」は、「型」による、修行・修養・養生と呼ばれる「身体性を探求する」ものでした(教養は理性、修養は身体性による)。

 敗戦(1945年)後は、この身体性はさらに大きく失われました。1960年代、正坐から椅子坐の生活へと、日本人の生活様式が大きく変わって行ったのですが、坐の生活が失われるとともに、日本人が生を全うするために受け継がれてきた智=「型」が失われ、修行という人生観も、すっかり忘れられていきました。

 日本では、諸外国における宗教と同じくするもの、つまり精神的支柱として、明治期までは、「道」とこれを体現するための「型」が、近代化の中でもそれなりに保たれていたのです。

 しかし、明治から始まった西洋的な軍事教練による〈型〉は、次第に伝統的な「型」を駆逐し、戦後は全くというほどに失われてしまいました(ごく一部の、伝統的な武道や芸道を継承する人には、現在でも受け継がれている)。

「型ができている(身に付いている)」というのは、身体性が高度であるということですが、これは、一流スポーツ選手、武術家、西洋・東洋の舞踊家、また茶道家、そしてかつての職人など、様々な分野の〝できる〟(註)人々に見られる、「能力が秘められた様相」を意味しています。

(註)江戸時代、往来ですれ違う侍同士が「おぬし、できるな!」と呟けば、片方も「うむ、おぬしもな」と、互いに相手を「型」で判断でき、認め合うことができたと言われる。

 これは「身体」の能力に違いないのですが、「意識」の働きであることを知らなくてはなりません。つまり、このような身体性は、絶えず意識して訓練し磨かれてきたものである、ということです。ですから、このようにして発達した「意識」なのです。

 しかし、長い間の鍛錬を通じて、「無意識」と同化していることが「型ができている」=「身体性が高い」意識を持っているということです。これを、「無意識」を開墾(=修行)したというのです。

 師野口晴哉は「鍛錬しぬいてのみ自然と会することができる」(「晴風抄」)と述べ、師の説く「人間の自然」とは、無意識に具わっているはたらきが十全に現われる状態(自然(じねん)の本来的な意味)を言います。

 無意識には「生を全うしようとする」という働きが具わっているのです。

 しかし頭に偏った状態のままでは、意識と無意識(生命の持つその潜在力)が離れてしまうのです。こうなると、人生に対する適応能力が充分発揮されず、生への意欲が乏しいものになってしまいます。

 内在せる無意識のはたらきを意識につなげるため「腰・肚」文化があった、私は、このように「腰・肚」文化を再発見したのです。ここには、身体感覚に基づく「無意識」に対する信頼がありました。

「型」は、身体を鍛錬することで身に付けることができる、心のはたらきなのです。