野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体 活元運動 第二章 四4 修行としての整体生活

「修行」という言葉を聞くと、苦しみに耐えることや難行苦行をすることを思う人が意外と多くいます。しかしここでは、そういう行為を修行と言っているのではありません。以前引用として出て来た内容ですが、野口晴哉は次のように述べています。

大人の天心 1973年5月整体指導法中等講座 

…人間の体で一番健康状態に関連があるのは体の弾力であります。つまり体や心に弾力を持っていないと体の自然の状態といえないのです。

…それで体の弾力を、或いは心の弾力というものをどのような状態でも持ち続けるということに於いて鍛錬という問題が出てくるのです。大人になって天心を保つのは鍛錬が要る。いろいろな問題があって、自然の気持ちを保てないような状態のときにでも尚保ち続けるというのはやはり鍛錬です。

 このように野口晴哉は辛い現実や苦労の最中にあっても心と体の弾力を保つこと、天心を保つことを「鍛錬」と言っており、そのために活元運動を行うことを勧めています。金井先生の「修行」もこれと同じ意味です。

 言葉の意味を理解したうえで、今日の内容に入っていきましょう。

4 修行としての整体生活

 活元運動を行なうことは、「澄んだ心」を身に付ける瞑想的修養です。

それは、身体性が向上する(身体感覚が高まる)ことによって「心の濁り(雑念)」に敏感になるからです(過敏ではない)。

瞑目してぽかんとすることは、起きている時に意識を休める(=瞑想)状態になることで、無意識からのエネルギーの供給を受けられる、ということなのです(これが師野口晴哉の「意識が閊えたら、意識を閉じて無意識に聞く」の意)。

坐禅を行う時、目を閉じるのは、視覚が大脳の新皮質を広い範囲で使う機能であることから、意識して新皮質を休めるためです。そうすることで古い脳と呼ばれる皮質下中枢(大脳辺縁系や脳幹など)や脊髄が活性化し、生命力が高まるのです。

 師野口晴哉

目玉を捨てろ。意識から離れろ。

然らば、道は自づから開かれる

と述べましたが、活元運動は無意識を拓くことなのです。

 インドでは「修行」に当たる言葉をタパスtapasと言うそうですが、元来の意味は熱、火を指し、物を温めるはたらきです(この温かさとは、「情動(感情)」のことを指す)。西洋の研究者は、タパスを「創造する温かさ」と訳しているそうですが、これは修行により、意識と無意識が統合されることで、無意識からの創造的エネルギーを意識とつなげ、自己実現を具体化することができるからです。

 日本のさまざまな芸道や武道の発展に大きな影響を与えてきたのは仏教の修行法ですが、仏教のひとつである「禅」を思想基盤とする野口整体は、指導者になる人はもちろん、指導を受ける人においても「修行」という、身体を通じて「心を磨く」という心構えが必要です。

「修行」という言葉の語感は、身体の訓練を通じて自分の心を鍛錬するという意味合いがあります。「修行」というものを真に理解すると、身体と精神は不可分のものであり、まさに身体が「深層心理」であることが分かってきます。

 整体であるための生活をする、とは「修行」する、という意識が必要なのです。