野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

修行とは何か―気の思想と目的論的生命観 1

修行とは何か

 5月8日のブログで、私は「金井先生の説く目的論は、「修行とは何か」を説くことに主眼があった」と述べました。

 今回から、下巻第七章 背骨と日本人の感性― 気の思想と目的論的生命観の内容に入って行こうと思います。

 この内容は、野口整体の基盤にある日本の「気の思想」を目的論として説くことを通じて、「修行」によって啓かれる身体智について述べています。

 この中で、金井先生は若い世代が「修行」の意味が分からないと指摘していますが、身体行=体で行う事=お稽古事や坐禅、武道などをやること、という理解をしている人が多いのです。

 また、自然健康保持を実現する潜在体力も、「啓いていくもの」であって、方法論的に「これを行えば可能です」というものではないのです。

 なぜ、何のために、というところに体で行うことが「修行」になるか否かがあり、そこを金井先生は説こうとしていました。

 今日は、その始まりの部分を紹介します。

 

1 東洋宗教の身体行(修行)は無意識に秘められた可能性の開拓

 私は日々整体指導で人に接していますが、初出版(『病むことは力』二〇〇四年六月)以後のこの十年余、ことに若い世代に「修行」という言葉の意味が通じないこと、時代の通念が大きく変わってしまったことを痛感してきました。

 現代人はその多くが、「人生は修行である」という、古来よりの神道や仏教に根ざした「日本の伝統的宗教観」を喪失しています。これは敗戦後の日本社会で、東洋宗教文化である伝統的な「道(どう)」が継承されなかったことが要因です。

 そのような時代に育ったことで、野口整体の活元運動と個人指導を「人生を拓くために行う」という理解が浅い人が、若い人たちには多いと、私には思われます。

 外来の仏教が日本的に進化した禅が、「上虚下実の身体」を拠り所とする「肚」の文化を生み出し、修行という宗教観の頂点にありました。しかし現代の若い世代の多くは、「肚」という言葉すら知らないのです。

 師野口晴哉は、「整体は真面目に生きる人のためのもの」と語りましたが、私はこれを、「生き方」として受け取り、これまでこの「道(みち)」を歩んで来ました。

「人生を拓く」には、社会的、職業的能力が必要ですが、このような能力を培う自発的な意欲を持ち、行動に現わしていく「身心」を育てて行こうとするのが野口整体です。

 体を整えることで「心のはたらき」を耕し、感受性が高度になることで生きる領域が拡がり、これが、自身の持つ「可能性を開拓する」ということです。

 師野口晴哉は、講義の中で「金剛石も磨かずば…」(註)という言葉を度々口にしていました。師の「全生」思想、また私の言わんとする「修行」とはこのことを指しています。 

(註)「金剛石も磨かずば…」(金剛石…ダイヤモンド)

昭憲皇太后明治天皇妃)の御歌。

 

金剛石も磨かずば 玉の光は沿わざらん

人も学びて後にこそ 誠の徳は表わるれ

時計の針の絶え間なく 巡るが如く時の間も

日陰(ひかげ)惜しみて励みなば 如何なる業(わざ)か成らざらん

 

人は器に従いて その様々になりぬなり

人は交わる友により 良きに悪しきにうつるなり

己に優る良き友を 選び求めて諸共に

心の駒に鞭打ちて 学びの道に進めかし