野口整体と科学 第一部第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 二3
3 西洋人のように修行の意味を知らない現代の日本人― 科学が変えた現代日本人の心身観
湯浅泰雄氏は「宗教修行」の問題を中心とした日本思想史の研究家です。氏は、東洋思想の伝統に流れている心身観(心とからだの関係)の捉え方に関心を持ち、哲学・心理学・医学等(近代科学)の立場から現代的観点における「東洋の心身論の意義」について研究しました。
また、東洋の智に強く関心を持った深層心理学者のユングを研究しました。
ユングは「西洋の知は常に自己の外なる世界(ものについての知)へと向かっているのに対して、東洋の知というものは常に、自己の内なる世界へ(心また魂に)向けられてきた」と、東洋宗教の世界を西洋文明に相対化して理解したのです。
氏は彼に導かれ、西洋と東洋の知の伝統の性質の違いについて研究し、自己の「内なる世界」を探求するため「身体」に取り組む、という東洋的「身体論」を展開したのです。
湯浅氏は、「心身二元論(西洋的心身観)」と「身心一元論(東洋的心身観)」の違いについて、次のように述べています(『気・修行・身体』)。
1 東洋の修行の伝統と西洋の心身二元論的思考様式
…私が特に関心をもったテーマは、東洋の諸宗教の伝統の中に見出される「修行」の問題です。日本では、古代に仏教が受容されてから以後、さまざまな修行の方法が組織され、後世まで伝えられてきました。禅の修行は世界的によく知られるようになった例です…このような仏教の修行法は、日本のさまざまな芸道や武道の発展に大きな影響を与えました。
中国では主に道教の伝統の中に、またインドではヨーガの伝統の中に、日本とは多少ちがった形で修行法のシステムが伝えられております。
まず、ごく一般的にいいますと、「修行」あるいは「行(ぎょう)」という日本語の語感は、身体の訓練を意味するとともに、それを通じて人間としての精神、つまり自分の心そのものを鍛錬する(精神を磨き人格を向上させる)、というような意味合いをもっています。
…したがってここでは、身体と心は一体不可分の関係にあるものとしてとらえられているように思われます。
インドの伝統では、「修行」に当たる言葉はタパスtapasといいます。…タパスは、鳥が卵をあたためて雛をかえすように、自分自身の中から新しいものを生み出す内面的な温かさである、といわれています。
…要するにタパスは、身体の諸能力を訓練することを通じて、自分の魂の中から新しい自己、あるいは新しい精神のはたらきを目覚めさせ、誕生させるエネルギーであるといえるでしょう。「修行」とか「行」という日本語にも、これと似た意味合いが含まれていると思います。
われわれ東洋人にとっては、こういう考え方は古くからいわれてきたことですから、身体の訓練は同時に心(精神)の訓練を意味するといっても、わりに容易に理解できるのではないかと思います。しかし西洋人にとっては、このような考え方は、必ずしも容易に理解できるものではないようです。
…東洋の伝統では、心と身体を不可分のものとしてとらえるとともに、身体の訓練は、精神と人格を向上させる技術的手段として積極的な意味と価値を与えられてきました。
湯浅氏は、インドのタパスを挙げて、東洋の諸宗教に共通する「修行(=身体行)」の意味と目的について説明しています。
このような東洋宗教の「修行=新しい自己を目覚めさせる」という身体行の伝統があったからこそ、今日の野口整体の思想と行法が存在しているのです(師野口晴哉の整体操法講座では、「体を開拓する」という言葉が用いられていた)。