野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部 第四章 科学の知・禅の智 二6②

 二6①②③は、二4・5を踏まえての内容となっていますので、難しいと感じたら4・5に戻ってみてください。

 6「人間と自然の関係」における西と東の相違

野口整体は東洋の伝統的科学

 湯浅泰雄氏は「東洋の自然観と身体行」について、次のように述べています(『「気」とは何か』)。

実践修行の問題

 しかしながら、人間は「道」のはたらきの容器であるといっても、そのはたらきを知るにはどうすればいいのか。ここで、西洋と東洋の思想の今一つの大きなちがいが出てくる。それが実践の問題である。

 ギリシアの哲学は、世界を外から眺め、観察するという態度に基づいている。このため、理論(テオリア(註))と実践(プラクシス(註))を区別する。(テオリアとは「眺める」という意味である。)

 この区別が近代になって、理論と応用、あるいは科学と技術という分け方になったのである。

(註)テオリア《観察》

 テオーリア。哲学で、永遠不変の真理や事物の本質を眺める理性的な認識活動。

ラクシス《実践》実行。行動。実際に即しての働き。対象に対する単なる観照的態度としてのテオリアに対し、対象に対する行為的態度。

 この場合、西洋の哲学では理論を重視して実践に先立てるが、東洋の哲学では逆に、実践を理論に先立てる態度をとる。

 儒教哲学の基本は道徳と政治の実践活動であって、自然観察ではない。道教は自然の中に生きることを理想とするが、自然は客観的な観察の対象ではなくて、人間の本性を実現するための舞台である。気功は、そのための修行法である(金井・野口整体もこれである)。

 また仏教は、生老病死の苦しみをこえて「悟り」に至る実践の努力を重んじる。さまざまな仏教の修行法はここから生まれている。実践には身心の訓練(修行)が必要である。

…気のはたらきは眺めて考えることによって知られるものではなく、まず実践を通じて感得するものであるからである。実践とは心身を用いる修行である。(金井・これが心身二元論と身心一元論の相違)

 要するに、簡単にいえば西洋の歴史では、哲学は外なる物的自然の観察と結びつく傾向があり、このため物理学が科学の基本とされるようになった。

 これに対して東洋では実践を重んじる傾向がつよかったので、哲学は宗教的な修行や医術と結びついた。

 現代風な言い方をすれば、東洋の伝統的科学は、物質についてのテクノロジーではなくて、人体(心と身体)の「わざ」としてのテクノロジーを中心にして発達してきたともいえるであろう。

 したがって(東洋)哲学は、メタ物理学(註)ではなくてメタ人間学なのである。メタ人間学とは、人間が真に人間として生きてゆくための道を求める実践的体験から生れた知である(金井・野口整体はこれである)。

 (註)メタ物理学(フィジク)=形而上学

 物質界の現象を超越した世界を取り扱う学問。世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根本原因)や、物や人間の存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものについて考える。西洋の形而上学は物質についての知を基礎にしているが、東洋では人間(金井・心と身体)についての智を基礎にしている(=メタ人間学)。

  湯浅氏の「東洋では実践を重んじる傾向がつよかったので、哲学は宗教的な修行や医術と結びついた。…東洋の伝統的科学は、…人体(心と身体)の「わざ」としてのテクノロジーを中心にして発達してきた」の言葉に基づいて表現すると、野口整体は、西洋近代の影響を大きく受けつつあった時代、日本の身体智を元に発達・発展した東洋の伝統的科学なのです。