野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第一章 野口整体の身心の観方と「からだ言葉」二5

理性で捉える肉体と、感性で捉える身体

― なぜ、心身二元論・身心一元論について学ぶのか

 現代では、近代西洋医学の解剖学を基礎とした生理学を小学校で習うことで、そのような解剖的身体観(=肉体観)が意識に入っています。こういう教育がなかった時代は、「理性」で理解するよりも、自分の身体を直接感ずること(身体感覚)や、人の身体に触れて「感覚(触覚)」で捉えていたわけです(これらの感覚も意識の一つ)。

 江戸時代の養生書『養生訓』(貝原益軒)に代表される「気の医学」に表されている内容を、現代人が理解するには、先ず、このような「身体感覚」や「触覚」から吟味すべきなのです。私がこのようなことを述べる理由は、野口整体は、古来日本の「気の医学」の伝統に基づくものだからです。またさらに、西洋の深層心理学的なものを加えた、現代的、未来的なものでもあります。

 しかし現代人には、身体とは、解剖生理学として習う「部分の集合体」(=機械論的身体観)という思い込みができているのです(西洋医学の医師の多くは、頭蓋骨は動かないものと決めている)。

 その上、現代、学校で行われる科学的教育内容は全て「理性」的思考で出来ていますから、江戸時代までとは格段に違う意識が、現代人に形成されているのです。このような「意識」が発達しているのですから、新たに「身体(潜在意識)・無意識」というものを理解しないと、既に日本人においても、〔身体〕が捉えられない時代となっているのです。

 師野口晴哉は「最初に感ずるということがある。そして思い考えるのである。(晴風抄)」と、「感ずる」ことの大切さを教えています。

 東洋宗教の「修行」は、身体性を高めることによって、無意識にある智慧を開くことを目的としたものです。そして、理性の意識ではない「身体感覚」による意識が、身体という「無意識」とつながって、私が意味する「感性」となるのです。

 仏教における「慈悲」という心情の能力や、禅の「悟り」という心は、深い感情のはたらきとして現れるものです。

 敗戦後、このような東洋宗教を喪失した現代においては、野口整体の個人指導や活元運動、これらの行法は、このような東洋的身体観に立っている、ということを先ず理解する必要があり、このために「感覚で捉える」東洋(一元論)と「理性で捉える」西洋(二元論)の身体観の違いについて学ぶのです。

 このように「理性」で理解し(教養)て後に、「感性」で理解する(修養)ことが必要だと考えての本書の内容です。