野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

こうも頭で生きる人が多くなってしまったー気の思想と目的論的生命観17

近代以降、日本と日本人が変化したのはなぜか

 今回は、下巻第七章ではなく、上巻の内容に戻ります。

 日本と日本人の身心の変化について、後に金井先生は、次のように述べています(上巻『野口整体と科学』第三章一)。

 (金井)

一、「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」

二、「気のしっかりした人がいなくなった」

三、「たましいという言葉が使われなくなった」

四、「このままいくと頭のおかしい人が増える」

五、「いきなり刺す人が出てくる」

 

 これら五つの言葉は、高度経済成長時代(1954(昭29)年~1973(昭48)年)後半の、師野口晴哉の言葉です。

(これらの言葉は、当会での、2008年夏からの講習会教材と翌年からの新たな会報(Ⅴ~)作りをする中で、私の潜在意識から呼び起こされたもの。)

 

 日本では1970年、大阪万国博が開かれ、科学技術の進歩に対するバラ色の夢が謳われたのですが、この年を境に科学の影の面も大きくなってきました。化学物質による公害などの環境破壊とともに、教育の荒廃などの現象が目立つようになってきたのです。これは科学的社会の進展による、物質的豊かさの過剰から心の存在が見失われてきたことを示しているようです。

 師の「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」という言葉は、人の心が「意識、つまり頭に偏ってしまった(註)」という内なる「環境破壊」が現実化してきたことを示し、特に、将来を見越して四と五の言葉を遺されたのです。

(註)この場合の意識は、現在意識のこと。潜在意識や無意識と呼ばれる、より深い意識が薄れた=身体性の衰退という問題を意味する。

 現代では、科学文明による世界的な問題として「地球温暖化」、そして、科学によって宗教性が駆逐された(註)ことで、身心の問題に対して「スピリチュアリズム霊性)」が求められるようになりました。

(註)湯浅泰雄氏は『宗教と科学の間』で「近代初期の宗教と科学の対決と分離は、人間精神の自己内分裂の歴史であったのである。」と、ユングの考えを紹介している。ユングは科学と近代西洋文明が失った、意識と無意識を統合する道筋を、近代以前の西洋の精神文化と東洋の宗教に求めた。

 

 科学知と伝統宗教智の統合が世界的に必要とされる時代となったのです。

 冒頭の五つの言葉は、戦後日本社会の科学的発展に伴う「人間の心の問題」を象徴するものです。私は、師野口晴哉より教えを受けた間(1967~76年)に、このような言葉を聴くことで、現代の問題を何気なく理解していたのです。そして五氏の著作を通じて、「科学と現代に生きる日本人の問題」を明確に捉えるようになりました。

五つの言葉は、師野口晴哉が生きた時代を通じての「日本人の心の変化」であり、明治維新以来、百五十年の「日本人の体の変化」なのです。

 

 この背景には西洋文明「近代科学」がありました。

 櫻木健古氏(1924年生・新聞記者)はその著で、明治15(1882)年生れの父親の語った言葉を挙げ、明治以来の日本の近代化・西洋化がもたらした日本人の変化について、次のように記しています(『太ッ腹をつくる本』1975年)。

心の完全に健康な人は10パーセント

  数年前、数え年の八十七で亡くなった私の父は、ボロクソの毒舌でもって天下国家を論ずることを好んだ。

 その彼の毒舌のひとつに、「いまの日本人は、総理大臣以下、一億こぞって腹なしだ」というのがあった。

 明治十五年に生まれ、明治、大正、昭和の三代を生きた彼の観察によると、明治の時代には、器(うつわ)の大きい、太ッ腹の人間が、いろいろな分野にたくさんいたという。大正のころから武士道精神がなくなり、時代がくだるにつれて人間が小粒になってきた。とくに敗戦後、急激に日本人が小さくなった。そのあげくの果てが〝一億こぞって腹なし〟なんだそうである。

「昔はよかった」と言いたがるのは老人の通性だが、しかしこの観察、当たっていないことはあるまいと思う。

   2006~07年のMOKU連載以後、先生の思考が広がり、深化したことが伺えますね。次回は下巻第七章に戻ります。