野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第二部 第一章 一3「理性」による科学と「身体性」が育んだ禅― 自己を知る智がない科学、自己を知る禅

3 「理性」による科学と「身体性」が育んだ禅― 自己を知る智がない科学、自己を知る禅

「自分の健康は自分で保つ」ための活元運動を主とする野口整体の思想基盤には「禅」があり、「健康は医療が管理する」西洋医学の思想基盤は「科学」です(科学の大本には自然支配の思想がある)。

 活元運動は「動く禅」とも呼ばれます。禅はインドを起源とし中国を経て伝わり、日本で完成したと言われます。

「日本の禅」は、十九世紀末から鈴木大拙師により、その哲学がアメリカや欧州に伝えられ、今や、欧米の多くの人々が盛んに「坐禅」をするようになりました。

 これは、西洋文明・近代科学は外界探求と自我の確立(外に向かっての究明と雄弁)であり、ここには、人が生きる上で最も大切な「自己を知る」智(沈黙と「身体性」)がないからです。

「正坐は正心正体を作る」とは師野口晴哉の言葉ですが、儒教や仏教では正体・正心(正気)によってこそ、初めて物事を正確に知覚し、正しく理解することができると教えていました(このような「身体性」が東洋宗教の基盤)。

 しかし近代科学では、人間の知覚・認識とは、感覚器の機能(視・聴・嗅・味・触覚の五感)や「理性」によるものとしています(科学的認識手段としては、五感の中で視覚が特化し他の感覚は切り捨てられる)。

 敗戦後、日本は科学的高度工業化社会実現のため科学(理性)至上主義教育となり、江戸時代まで育まれ敗戦時までは伝えられてきた東洋宗教文化が衰退しました。このため科学的現代社会では「身体性」が衰退しているのです。

 正体・正心という身体性を通じて「知(性)・(感)情・意(志)」の円満な発達を促してきたのが、禅を頂点とする日本の伝統文化でした。

 伝統的な日本人の生活形態の根底をなしていたのが、かつての日本文化「道」、また禅で、禅とは「自分自身を相手にして生活すること」です。この禅文化が日本近代において、新たな型として啓いたのが野口整体であると結論するのが、この道五十年を迎えんとする私の考えです。

 伝統的な日本人の意識は身体にあり、その中心は「腰・肚」にありました。この身体性が禅文化を育み、一方、古代ギリシアに始まる西洋の意識・理性が科学を発達させたのです。

 西と東の文化の相違は「理性と身体性」であり、敗戦後、日本の教育は理性至上主義となったことで、この「理性と身体性」が、現代日本人と伝統的日本人の相違ともなっています。

 ここに、近代化をし終えた(西洋に学ぶ時代が終わった)後の伝統智の復活が求められる所以があります。「科学を相対化する(註)」こと、「東洋宗教(伝統)文化を再考する」ことを通じて、「禅文化としての野口整体」を思想的に理解することが、私が伝えたい内容です。

(註)科学を相対化する

 日本では明治以来、近代(自然・社会・人文)科学を、その文化的背景や歴史(西洋文明)と切り離し、その研究結果や技術だけを「分科の学」として取り入れて来た。そのため、科学を学ぶ意義については、ほとんど理解されておらず、特に敗戦後は、科学絶対主義が横行した。

 今や、科学的な視点やものの見方が、唯一絶対ではないと提示することが、新しい視座を得ることにつながる。