〔身体〕が個人である理由を明らかにした野口晴哉-体癖論Ⅰ 1
科学にはない自己を知る智―主体と対象が未分離な「禅の智」
今日からいよいよ体癖論が始まります。これは下巻の第九章に収録されている、かなり分量のある内容です。
近年、野口晴哉著『体癖』(筑摩書房)が文庫化され、精神科医の名越康文氏が体癖についての本を書くなど、以前よりも体癖というものの存在は世に知られるようになってきました。
しかし、野口整体の指導者が書いた体癖論としては野口先生の著書があるのみで、金井先生の体癖論をぜひ世に出したいというのが私の希望でした。その基本的内容は『「気」の身心一元論』に収録されており、これから紹介するのは、そこに大幅に加筆された内容です。
金井先生の執筆活動は、野口整体の本質、野口整体とは何かを世に知らしめたいということが目的で、そこには野口整体の社会的認知を高めたいという願いがありました。
野口先生の説いた体癖は、人間の「要求」を出発点とした人間観で、姿勢の偏りを正すためにのみあるわけではありません。
では、体癖の世界に入っていきましょう。
(金井)
① 感覚の奥にある心
私たちは普段、環境から物理的・心理的な刺激を受け取っています。その刺激をどのように受け取っているか(=刺激に対する反応の仕方)は、各人の個性により異なっています。
あることを「それぞれの人が、心によって受け取る」、それは、そのように感覚(主観)がはたらいている、ということです。心の内で「…と、感じる」ことから、「自分の(内的)世界」というものが生じているのです。
メルロ・ポンティ(1908年~1961年 仏・哲学者)は、「美は客体にあるのではない」と言いましたが、美は、美を「感じる心(主体)」にあります。ある受け取り方があるから、ある思いがあり、これが、その人の「心の世界」です。このような「個性」は身体(無意識)にあるのです。
このように「主観」がどうはたらいているかを理解することが、自分を知る上での鍵となります。
西洋文明・近代科学は「外界探求と自我の確立(外に向かっての究明と雄弁)」であり、ここには、人が生きる上で最も大切な「自己を知る智」(沈黙と「身体性」)がないのです。
東洋的身体論では、内から感じられる自分の身体についての主体的自己把持感覚を重視するのですが、師野口晴哉ならではの身体論が、体癖論です。
「理性」を重視した近代自我では身体性が軽んじられ、無意識である「自己」を活かして生きることが、難しいものです。
体癖を理解し、自覚することは、自身の内なる自然を活かす道筋となるのです。