第五章 東洋宗教(伝統)文化を再考して「禅文化としての野口整体」を理解する 二 1②
1 近代化に抗して「生きた体と心」についての智を拓いた日本人
― 西洋的理性で捉える客観的身体と東洋(日本)的感性で捉える主体的身体
②気と日本人の身体性
「気」については、松本道別(1872年生)や、彼を師とする野口晴哉が代表的な人物として挙げられます(師野口晴哉・全生思想の初期の記述に「人体放射能・深息法・霊動法」の語があるが、これらは松本道別の霊学体系の用語)。
これらの方法は、自らの生の体験をふまえて展開した健康の知を、癒しの知としたもので、その人々は健康の問題を、生の全体性の中で捉えなおそうとしました(指導者自身の主体的体験(主観)が基盤であり、これが科学とは異なる(科学には自分が入っていない))。
近代医学が物質中心であることや近代社会の競争原理など、近代化の負の側面が、様々な分野で日本人の精神性や伝統との調和を回復しようとする試みを促しました。
彼らは、物としての体を分析することや、死体を解剖して得られる知とは異なる「生きた体と心」、「生活している人間」についての智を拓いていったのです。
これらは、勤務時間の他に瞑想的(沈思黙考する)時間を持つという、近代生活に伝統を織り込む形の「修養」的健康法として社会現象となりました。
野口整体(行法や全生思想)が生まれた背景には、このような伝統智の復活という時代の気運が存在していたのです(詳しくは『禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動』終章参照)。
野口整体を学ぶ上では、これが、日本の伝統文化から生まれた思想と行法であることを認識する必要があります。なぜなら、西洋的理性で捉える客観的身体(物質的身体「肉体」)とは全く違う、日本的感性で捉える主体的身体があるからです。
このような「身体性」が、日本文化の伝統なのです。
身体性について、まず取り上げるのは「丹田」です。日本の身体文化では、丹田を感得した腹を「肚」と呼び、精神の基盤として位置付けて来ました。
心身二元論である近代科学は人間の心を理性とし、体を心から切り離しましたが、身心一元論である東洋宗教は、体の中心(肚)が充実していることを心のはたらきの理想としました。このような「体と心の一体性」を意味する言葉が身体性です。
丹田は、臍のようにモノとしてあるのではなく(=解剖学的には存在せず)、身体感覚で捉えるものです。換言すると丹田は、科学的認識としては無く、「気」によって捉えるものです。
気による身体の観方・捉え方が、野口整体の世界なのです。
「気で気を観る」野口晴哉