野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

科学にはない「人間を個人として理解する」智-体癖論Ⅰ 2

人間における個の探求

これを読んでいる人の中には、「自分が何種なのか知りたい!」と思う人もいるかと思います。早く「○種はこういう人」というのを知りたいとか。たしかに体癖は一見、人間のタイプ分けに見えますね。
しかし体癖を学ぶ場合、まず「体癖とは何か」を理解することが非常に大切です。それがないとなぜ「個人の理解」のために体癖があるのか、ということが分からないのです。野口整体で言う「個」とは、人間の内なる自然、野性に近い意味があります。
また、野口晴哉先生は「体癖は色のようなものだ」と言っていた、と金井先生から聞いたことがあります。赤、といっても安っぽい赤から深みのある赤、渋い赤、さまざまですね。このように○種、といってもその表れは個そのもので、発色のいい人、悪い人もあります。
 人間における個の探求、それが体癖だというのが野口先生の考えでした。それでは、今回の内容に入ります。今回は引用が多めです。

(金井)
 人がありのままの自身を知り、そこから主体的に生きるための道筋が「体癖論」にあります。
 師野口晴哉は「健康の原点は自分の体に適うよう飲み、食い、働き、眠ることにある。そして、理想を画き、その実現に全生命を傾けることにある。」と説きましたが、この「自分の体」が、実は、他者とは大いに異なる「感受性」の源なのです。
 身体は、本人も気づかず一定の無意動作をしており、これが、その人の感受性の世界を作り出しています(次回、異なる二人の例を挙げ詳述)。
 この、個人である理由を明らかにしようとするのが体癖研究です。師は次のように述べています(『月刊全生』増刊号)。

晴風
 人間は大勢で生活しております。けれども、この中の一人がほかの十万人の中に混ったとしても、百万人の中にいたとしても、知っている人が捜せば判るのです。
 何故かというと、その人が、その人である特徴が濃いからであります。万人の中にいても判るということは、言いかえれば万人が誰とも似ていないということである。

 個人個人というのはそういうように特徴が濃いものであって、その濃いという理由の大部分は、その体癖的な特色によるものだと言ってもよい。
 私のように運動系の個人特性を手がかりに人間研究を始めたものからすれば、いつでも不思議で仕様がないことがある。

 政治家は大衆に呼びかけると言い、生物学者はヒトと言うが、大衆とか、民衆とか、ヒトとかいうものがいるのだろうかと、毎日見ているのですけれども、そういうのに出会わないのです。みんな何の誰某なのです。しかも要求を訊くとみんな一人一人違うのです。
 同じ寄宿舎にいて、同じ勉強していても、間食に食べたいものを訊くと違うように、みんな違うのです。又同じ食べものを食べて生活していても、或る人は脚気になり、或る人は糖尿病になる。
体の吸収する機構、運動に何らかの相違があるのではないだろうか。或は消耗する機構に何らかの相違があるのではなかろうか。
 そういうように考えていくと、そういう人達を十把ひとからげにヒトとか大衆とかいうように扱うことが間違っているのではないだろうか、どこかにそれは矛盾があるのではなかろうかと、私は体癖を研究し出してからそのことを強く感じ出したのです。
 人間の体癖を調べようとする場合には、無意識の運動の偏り習性、体の中にある要求を表現する様式、ものを感じそれに反応していく特性、つまり或る特定のことには敏感であり、特定のものには鈍感であるという感受性の方向様式、それと体周期律の特性、それらをひとまとめにしたものを体癖と見、一人一人を研究して行こうというのであります。
 ですから、体癖を明らかにするということは、個人の個人である理由を明らかにすることではないだろうか。人間の研究としてはこの方が本当なのではなかろうか、そう考えているのであります。

「そういうのに出会わないのです」と何気なく語られている言葉は意味深長です。
「大衆とか、民衆」は、社会学政治学・法学(人文科学)、「ヒト」は生物学(自然科学)という、科学的思考による概念です。

 これは、このように呼称する人(主体)が、人間を対象化し(自分から切り離し、客体として捉え)た概念です(概念化は科学の特徴)。
 対象化しない智、主体(観察するもの)と客体(観察されるもの)の一体化(=気のつながり)による智、これが師野口晴哉の体癖論です(東洋的知は主体と対象が未分離)。
 師野口晴哉は一九六五年五月の整体指導法中等講習会で、次のように述べています(『月刊全生』)。

個人の理解
…人間は完全に個人的な生きものであり、普遍妥当な学問的(=科学的)結論を出すためには、個々のいろいろな細かい問題を全て没却しなければならない。しかし我々の日常生活は、いつも個人を中心に動いている。
…普遍的な目で個人を見ようとすると、人間として一番大切な個々の特性を見落としてしまう。しかもこの特性が独立した人間の元になっているのです。
そこで私達が人間を個人として理解するための着手のところ、手のつけどころとして、人間の体の癖〝体癖〟というものについてお話しようと思います。

 体癖論は、普遍性を追求する科学にはない「人間を個人として理解する」智で、このような、「科学の知」に対する「禅の智」が、野口整体の智なのです。