「上虚下実」の身体と自我から自己への中心の移動
金井先生の生前、食事の時などに、先生と藤沢周平ものの時代劇の映画を見ることがありました。藤沢周平の世界観というのは独特で、私は物語の中で描かれる、個と全体の関係性、そして人間世界の葛藤や争いと対照的な、動かぬ山や季節の流れの表現が好きでした。
物語の展開としては、主人公は、普段は藩に仕えているが、武術という身体行によって啓いた個の世界を持っている。しかし、出世のための世渡りはうまくない。しかしある時から藩内の不正に一人、捨て身で立ち向かう…という内容が多かったように思います。
先生は「西洋人の個性は理性にあって、日本人の個性は情と身体にある」と仰っていましたが、本当にそうだな・・・と思うのです。金井先生は「個」に向き合い、啓いていくことを指導の中心においていました。
身体の世界を啓くというのは東洋独特の修行的世界ですが、外界を理性によって客観的に観察し、言語的に主張していく個性と、身体という内界に向かうことで次第に開かれていく個性の違いというのは、整体を考える上でも大切なことなのです。
(金井)
「個性化」という、ユングが考えたこのような「生き方」を、私は師野口晴哉の「全生」思想と質において同じものと考えています。
野口整体での「全生=整体を保持して生命を全うする」ことは、ユング心理学における「個性化とは『人格の全体性』という一つの目的に向かって変容し(姿・形が変わり)続けるプロセス(=成長の道程)」と、同じなのです。
ですから、私の経験からして「整体である」ことが難しい人は、「人格の全体性に向かって変容し続ける」要求を充分に持たない人です。
師野口晴哉の「整体は真面目に生きる人のためのもの」という言葉を、ユング心理学を学ぶことで新しく捉えることができました。
3で湯浅氏の文章を引用し、ユングの心理療法の目的「個性化」を挙げましたが、ユング派の臨床心理学者・河合隼雄氏は、「個性化」を「自我から自己への中心の移動」と表現しています(『心理療法序説』岩波書店)。
これは、整体指導の立場からは、身体が「上虚下実」の状態になることです。ここに「個性化」の過程が現れるのです。
体癖論Ⅰ 6で、「脊椎骨の五つの腰椎(L1~5)の一つに体癖的中心がある」と述べ、「腰椎と体癖の関係」を示しました。「個性化」における「中心の移動」とは、野口整体では身体の重心位置の移動であり、それは、頭から腰へと重心が下がることです(これが「上虚下実」の状態)。
重心が腰の「体癖的中心」に収まれば、自ずと体癖的な特性が現われるというもので、腰が決まることで、「直感・決断・行動」のはたらきが現われ、自分で「感じる・決める・行動する」という主体性がはたらくのです。これが「自己」のはたらきです。
現代人の「自我」とは、主に現代(近代化)社会に適応するための理性の働きであって、頭(理性=大脳新皮質の働き)には個性は無く、「個性は身体にある」ということです。従って、個性的な生き方とは、頭でなく体で生きることです。
「外」に向かっていた意識の流れが、個人指導で「内」に向かうと、内面への気づきが促され、無意識の中に仕舞い込まれたままになっている「まだ生きられていない自分の半面」という未分化な側面を自覚できるようになります。
これは、幼い頃にあった「自分らしさ」でもあります。この、成長の過程で忘れかけていた「本来の自分」の中で「活かされなかった」側面を意識化し、それを統合してゆくことで、それまでに偏って発達した狭い自我の枠組みが外れ、より大きな自我へと再構成されていきます。そして「全生」へと向かうことになります。
この、無意識の中にある「個性」を知り、自我が本来の「自身の全体性=自己」とのつながりを取り戻す上で、体癖は導き手となるものです。
「全生」という思想は、「人間は、『人格の全体性』という一つの目的に向かって変容し続ける」という、ユングの人間理解と同じであると考えるに至りました。このような観方を「目的論」的生命観と言いますが、近代になっての機械論的生命観以前に、西洋に存在していた生命観をユングが復活させたのです。
私が「龍珠」と表現するまでに捉えた「目的論」的生命観とは、機械論的生命観が絶対視される以前には、世界的に共通していたと考えられる「哲学」的生命観で、自然界のすべての生命には「目的」「意図」があり、その実現に向かって動いている、という観方のことです。
「目的論」は、師野口晴哉の言葉では、『一粒の樫の実は摩天の巨樹となる』や『魚化龍』に当たり、野口整体は、発展的な生命哲学であり、目的論であったのです。
師野口晴哉とユングの一致点は「無意識の自律性」に対する根源的な信頼があることです。無意識の奥底には、はかり知れない「智慧」が秘められている、という両者の思想です。
(註)自我と自己 自我とは「私」という意識であり、外界との交渉の主体。コンプレックスに支配されると、外界との交渉(関係性の構築)が自己の要求と切り離されたものとなる。