(補)西洋医学の視覚の特化と野口整体の共通感覚
西洋医学の視覚の特化と野口整体の共通感覚
補足として、以前のブログから、近代科学と視覚についての引用を抜粋します。
中村雄二郎氏は、近代と近代科学の発達、そして「見る」ことについて次のように述べています(『哲学の現在』)。
二 見る・聞く・触る
望遠鏡や顕微鏡が発明されたのも、人間が本格的に地理上の発見を行なうようになったのも近代はじめの西欧であったが、西欧近代は人間がとくに見ることに、それも未知のものをできるだけ視野に入れ対象化して見ることに情熱をそそいだ時代であった。
近代科学と科学的思考の発達がそのような情熱の所産であったことはいうまでもない。
…近代世界のなかでは、一見したところいかにも見ることが重視され、大きな意味をもっているようであるが、その見ることはかなり特殊なかたちのものであった。見るものと見られるものが引き離され、そのために五感の他の諸感覚や運動感覚、筋肉感覚などによる協働が不可能になって視覚だけが独走したものであった。しかし、視覚だけが働くこと、独走することと見ること、よく見ることとはちがう。よく見ることは、視覚を中心とした諸感覚の協働(共通感覚)による知覚なのである。
…視覚の独走に対して、他の五感や運動感覚、筋肉感覚などの働きの回復をめざすことは大いに必要である。五感のうちでとくに触覚は、視覚ともっとも対蹠的(註)な直接接触の感覚として、見るものと見られるものの分離状態をなくす上で大きな役割をもっている。聞くものと聞かれるもの、嗅ぐものと嗅がれるものとなると分離は、いっそう少なくなるにせよ、それでもありえないわけではない。しかし、触るものと触られるものとの間では、主客を対立させる分離は起こらないからである。
(註)対蹠的・・・全く正反対であるさま。