二 野口整体と東洋宗教的身体行― 湯浅泰雄氏の思想との出会い
今回から二に入ります。湯浅泰雄氏の著作が、金井先生の心にどのように入ってきたかが主題です。
著書を読み始めたのは『気・修行・身体』が最初でしたが、同様の内容が扱われている『気とは何か』もわりとすぐに読むようになったと記憶しています。私は先生に下読みを命じられたのですが、思想・哲学の本を本式に読む経験があまりなく、これは大変だ!と思ったのを覚えています。
でも、頭を空にして音読しているうちに分かってきて、湯浅泰雄の著作を読んでいる時の先生のつぶやきは、今でも心に遺る言葉だったと思います。
目的論については、このブログ内で『野口整体と科学的生命観』の内容を掲載していますので、興味のある方は読んでみてください。
1 科学とはこういうものか!―「人間が生きる意味や価値」とは無関係な「科学」の立場
湯浅泰雄氏の思想との出会いは、著述のための参考書をインターネットで探すうち目にし、直感で選んだ『気・修行・身体』という氏の著作が始めでした。
河合隼雄氏の著作を通じてユング心理学に出会う頃(2008年5月)、石川光男氏の著作数冊を通じて、私に科学の「世界観」が育まれつつありました。
私は『気・修行・身体』を得た後、間もなく手にした湯浅氏の他の著作にある次の一文を、科学的世界観の理解(石川学)を通じて捉えることができました(『「気」とは何か』)。
目的論と科学
…近代科学の歴史は天文学や物理学のような物質現象を支配する因果関係の探求から始まったから、生きるための目的とか意味といった事柄は考慮の対象にならなかった。
そこでは、事実がそのようにあるということだけが問題なのである。このような考え方を生命現象にまで適用するとすれば、生物学も医学も科学であるかぎり、感覚(一般的な視覚のこと)的に認識可能な事実の中に見出される因果関係を明らかにすることだけを任務とすべきである、ということになる。
19世紀の生物学には、生命体に特有の力が存在することを認める生気論vitalism(註1)のような考えもあったが、今世紀には否定されてしまった。生命の目的とか意味や価値について問うことは科学の任務ではない。近代科学はこのように目的論(註2)を否定する考え方(生きるための目的・意味については考慮しない)を前提しているのであるから、当然のことながら、人間の生そのものについても、何の意味も価値も認めることはできない。
(註1)生気論 「生命」を生命たらしめる要素が存在するという考
え方。非・近代の生命論の中では、普遍的である。世界中の文化の世界観の中に、類似する概念が広く見られる。
(註2)目的論 すべての現象は何らかの目的のために存在する、という考え方。アリストテレスの「目的因」に始まる。
科学の立場からみれば、人間の生と死は結局のところ、何の意味もない単なる科学的事実にすぎない。無論、個々の科学者 ―― たぶんその中の多くの人たち ―― は、人生の意味とか価値とかを認めているであろうが、近代科学は、科学の立場としてそれを認めることは決してできないのである。
このように語られている言葉に、「科学とはこういうものか!」とズシンときたのです。
では、「生命の目的」、その「意味や価値」を問うものはと言えば、それは哲学と宗教に他ならないのです。
私はこの湯浅氏の文章によって「人間が生きる意味や価値」とは無関係な「科学の立場」というものを初めて知り、「近代科学と東洋宗教」という世界観の大きな相違を知ることになりました。
「物質現象を支配する因果関係の探求から始まった」近代科学のパラダイム(思考の枠組み)は、生物学に、そして医学にも応用されました。
近代医学においては、肉体(物質)的な「事実がそのようにある」ということを研究するのであって、「健康を保つための生き方という考え方」は、医療では指導されません。こうして、近代と現代における機械論的・客観的身体観(心を切り離して体を捉える観方)が作り出されました。
これは医療と宗教が分離したのであり、近代医学導入(1874年)百五十年後の今日、日本の伝統的な「修養・養生」は、若い人々の知らぬものとなりました(野口整体は伝統に立脚している)。
この客観的身体観に多くの人々が支配されるようになったのが、現代人の「身心」の問題につながっているのです。
「科学の立場から見れば、人間の生と死は結局のところ、何の意味もない単なる科学的事実にすぎない。」ということは、無機的な「死生観」をもたらすもので、これが、敗戦後「道」を失った日本の、ことに若い世代においては、倫理観を持てなくした要因となっているのです(それで「生き方」が分からなくなっている)。