野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第二章 江戸時代の「気」の医学と野口整体の自然健康保持 ― 不易流行としての養生「整体を保つ」二2⑤

 気の思想を基にした「気の医学」と野口整体― 日本の伝統的な生命観・身心観

⑤整体指導における「気」

 野口整体の生命観は、このような「気の医学」の伝統を受け継ぐもので、師野口晴哉は、整体指導で「気」を扱うことについて次のように述べています(『整体法の基礎』第一章 技術以前の問題)。 

(八)〈気〉

 整体指導の技術の基は、この気をどう使うかということだけで、心とか体とかそういうものにはこだわらない。気の停滞、気の動かし方、気の誘い(いざな)、気の使い方といったように、体に現われる以前のもの、物以前のものを、物以前の力で処理していく、それが技術の基になります。

 だから、 “胃袋を治すにはどうしたらいいか”と訊かれても私は、胃袋など観ていない、気のつかえを観ているのです。気のつかえを通るようにする、鬱散するようにする、足りない処には巡るようにする。私の観ているのは気だけなのです。レントゲン写真を撮ったら、こんなふうに曲がっていたとか、こんなふうに影が出ていたとか言っても、それは物の世界の問題なのです。気の感応で気が通れば、どんなに曲がっていても真直ぐになるのです。頭の中の細胞がああなっている、こうなっているといっても、そんなことは問題ではないのです。

 手を当ててよくなるものはよくなるが、よくならない感じのすることがあります。それは気の停滞、つかえなのです。

  野口整体での養生とは、自然健康を保持するため「整体を保つ」ことです。このため、「上虚下実」の身体(丹田が中心)と「天心」であることを目標にします。

 整体とは「異常に敏感な状態」であり、さらに「調和感に敏感」であることが望ましいのですが、これには、身体(からだ)と精神(こころ)がどのようであるかを、「気」で感じることが肝要です(これを師は「整体とは敏感な体」と表現した)。

 このためには身体感覚がはたらくことですが、頭が忙しく重心が高い(=気が上がっている)状態だと、体の様子を感じることができなくなるものです。身体感覚は気の状態と関係が深く、気が鎮まっている時に鋭敏にはたらくのです。

 ことに江戸時代までの日本人には、気に対する鋭敏な感性があり、日本の伝統文化は〈気と息の文化〉とも言われるほどです。

 野口整体の基本となる「愉気法」は、呼吸法により「自身の気を調える」ことで人に行えるようになるもので、まさに〈気と息の文化〉の象徴と言えるものです(整体指導は「気を調える」こと)。

 師は、愉気をする時の心「天心」について、次のように述べています(『健康の自然法』)。

ポンに愉気を説く

…天心というのは大空がカラッと晴れて澄みきったような心だ。利害得失も毀誉褒貶も無い、自分の為も他人の為も無い。本来の心の状態そのままの心である。だから病気を治そうとか、早く良くなろうとか、もっと良くしようとかいう俗念を持ってはいけない。きっとよくなるという信念でも邪魔なものの一つだ。だから人間の生活が複雑になって触手療法(愉気法)が行なわれなくなったのだとも言えよう。