野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第二章 江戸時代の「気」の医学と野口整体の自然健康保持 ― 不易流行としての養生「整体を保つ」二3

病気と気、感情と気― 養生する上で必須な気の感覚

 立川昭二氏は、日本人の「気」について次のように述べています(『からだことば 日本語から読み解く身体』早川書房)。 

「景色」と「色気」

「気」には、東洋医学でいう「気功」などの「気」もありますが、わたしがお話したいのは、日本人が本来もっていた「気」についてです。日本人はからだや自然を全部ひっくるめて、かなり広い意味で「気」ということばを使っています。

…「気」について説明するのに、わかりやすいことばがあります。それは「色気」です。「色気」といったとき、「色」と「気」はどうちがうのか。

…ここが大切なところですが、「気」があれば、それは「色」に出るわけです。病気についていいますと、からだの奥にあるときは、まだ「気」なんです。

 ところが、「気」のうちは、まだわからない。そのうちに「色」に出るようになる。

…というわけで、「色」に出る前に、「気」がわからないといけない。本来ならば、人間ドッグに入って検査をしてもらう前に、自分で自分の「気」がわかっていれば、自分で早期診断ができるはずなんです。

 江戸時代の人たちは、「気」をよくわかっていたんでしょう。それが「色」に出る前に、自分で早期診断、早期予防をしていた。それだけ、からだに対する生理感覚が鋭く強かった。だから、当時の医学を「気の医学」といいますが、現代のような近代医学がなかった江戸時代には、人びとはこの気をいち早く察知した。

 貝原益軒の『養生訓』に書かれていることばのなかで、いちばん多いのは「気」なんです。「気をめぐらせ」「気を滞らせてはいけない」とくり返し語っています。要するに、「気」をきちんと活かす。そして、あまり使いすぎてはいけない。でも、じっとさせてはいけない、ということをしきりにいうわけです。それは、「気」という目に見えないものが「色」に出てしまうところで、きちんと自分で調整しなさいということなんですね。

「気」や「色」ということばの本当の意味を見失ってしまったわたしたちは、だんだんいのちに無防備になってしまったのではないでしょうか。

  心を主体に生きていた時代は「気の力」が分かっていました。従って、心主体で生きていれば自ずと気がしっかりしてくるのです。ところが現代では、頭にいろいろと教育すること(自我を中心とした意識教育)が多いため考えてしまい、心を使って生きることができにくくなってしまいました(頭を使っていることが心を使っていることと錯覚している)。

 そして現代は、自身の存在を外の物に依らしめ、内なる(深い心の)はたらきを発揮しないので、気がしっかりしないのです。

 また、立川氏は「病気と気、感情と気」について、次のように述べています(『『養生訓』に学ぶ』第一部 養生訓の思想 3 気の思想)。 

「元気の滞(とどこおり)なからしむ」

 生命の源である気は目に見えないままからだの中をめぐっている。病気もこの目に見えない気によっておこる。だから養生は気を調えることにある。それには気を和らげ、気を平らにすればいい。益軒は『養生訓』巻第二「総論」下で次のように語る。

  百病は皆気より生ず。病とは気やむ也。故に養生の道は気を調(ととのう)るにあり。調ふるは気を和らぎ、平(たいらか)にする也。…

…気は、一身体(しんたい)の内にあまねく行(ゆき)わたるべし。むねの中(うち)一所にあつむべからず。いかり、かなしみ、うれひ、思ひ、あれば、胸中一所に気とゞこほりてあつまる。七情の過て滞るは病の生(しょうず)る基なり。

(七情…喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の感情)  

 このように、養生の道は「気」を調えることにあると、益軒はとりわけ「感情」の制御を記しています。このことは、江戸時代以来、日本人にとっての共通感覚となっていましたが、近代医学導入以後、次第に忘れられて行ったのです。

(「医科学の立場では、…心理的問題は排除され(本章一3)」ることで、「感情」について顧みられなくなって行った。ようやく近年、心身医学の発達によっては取り上げられるようになった。日本の伝統的宗教「神道、儒・仏・道教」では、もとより「感情制御」がその基盤にあった)

 西洋では近代において、外界に適応するため「自我」による心身のコントロールが発達したのですが、内面的な情動や無意識の世界に対する適応という意味での心身のコントロールということを無視してきたのです。

 日本においても、特に敗戦後は養生が忘れられ、かつ理性偏重(西洋近代の自我)教育となったことで、現代病としての精神疾患抑うつ症やパニック障害など)や心身症が流行してきたのです(これが高度科学的現代社会の問題点)。