野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

巻頭 潜在意識は体にある!― 自分のことから始まった野口整体の道 一

6 心の師を求めていた高校時代

 中学では勉強ができるようになりましたので、担任も受験時期には、いきおい有名進学校を勧めたのです。

 ところが、その時に勘がはたらき、行きたくなかったのです。その明和高校は名古屋城に近く、歴史的にも良い場所にありましたが、指導の厳しい受験進学校で不自由な感じがしていました。

 当時、明和高校というのは、地元に強く、名古屋大学に一年に三百人ぐらい入っていました。

 東大や京大にも多く入ることで全国的に有名なのは、当会塾生の徳田君が出た旭丘高校というところですが、そこは自由なバンカラな気風でした。私の四つ上の兄は旭丘から名古屋大学理論物理学専攻)に行ったのです。そして私にも旭丘高校に行くことを勧めました。

 子どもの頃から何か兄に対して劣等意識があって、私は優秀な生徒が集まるところには行きたくないと思いました。遠距離ですが全く別の高校が意中にあったのです。しかし、結局は担任に押し切られ、明和高校に行かされてしまいました(それでも、合格した時は嬉しく、外聞の良いことに誇りを感じた)。

 中学は田舎で勉強にもうるさくないですから、好きにやっていたらできたのが、明和高校に入ると受験指導が強く、うるさく感じました。受験勉強から解放され、一学期のんびりしていたら、絶えずテストがありまして、すぐ成績が下がったのです(この学校は成績を貼り出す)。

 それで、中学のうちはあっちに居たのに、半年もしないうちにこっち(成績上位から下位)に来たのでショックでした。この時つまずいて、そのまま暗い三年間でした(このような不快情動が持続する青春であった)。

 また高校生ともなりますと、体の発育も伴って、自分はどういう方向に進んだらよいかと悩むのですが、そういう時にただ闇雲に勉強するということは、目標がないわけですから駄目なんです。

 私のような質(たち)は、必要性を感じないまま尻を叩かれても心が動きませんでした。将来はこういう仕事をしたいから、こういう学部を選ぶ。そこで目指す大学が決まってくるから、受験勉強にも身が入る。そういうものだと思うのですが、当時の私が受けた教育は、全くの「詰め込み」で面白味を感じることができませんでした。

 

7「志」を失った戦後の教育

 私は「受験勉強は学問ではない!」と思っていました。「学問は人を創る」ものでなければなりません。

 私の高校当時は、そういう「志」の持ちようではなく、敗戦後の高度経済成長の中期で、いわば経済戦士・工業戦士を作るための教育でした。面倒くさいこと言ってないで良い大学に入って良い会社に行く、それだけだったのです(これが、高校教師はもちろん、身の周りの大人たちの価値観であった)。

 しかし、私には戦士(兵隊)になるという思いがないわけです。「自分はどのような方向に進んだらいいのだろう」と悩んでいるのですが、こういう気持ちには関心を持たれず、成績だけ追っかけられていました。これには意味を感じられず、反発するわけです。学校の外にも、将来を展望する上で相談できる大人が、私にはいなかったのです。

 戦前の旧制高校は、どう生きるかをみんなで侃々諤々語り合っていたと聞きます。青春時代はここが一番大事だと思うのです。

 “人間”を養うという、これが旧制高校だったと思うのです。将来の社会生活に向けて、「精神性」を育むことがこの時代最も大切で、特に男というのは、そういう教育によって男になるのです。思想、理想・志というもの、それがやがて社会をどう進歩させていくかという力になるわけです。

 ここに大いに不満を持ったのです。

 敗戦後、日本人は「志」の教育を失ってしまいました。

 それで、私は唯一農業には興味があったのです。当時、高度経済成長下の1966(昭和41)年卒業で、農学部に敢えて行くというのもあまりなかったのです。