野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

巻頭 潜在意識は体にある!― 自分のことから始まった野口整体の道 一

8 浪人中に出会った野口整体

 その後、浪人生活が始まり予備校に行きました。それからは高校から解放され、随分気持ちが楽になったと思います。

 心機一転、四月からは結構勉強して、農学部に行くのなら、一番の学校と思っていた「北海道大学へ」と、進路を決めたのです。それは、「少年よ、大志を抱け!」のクラーク博士や新渡戸稲造に憧れていたという理由もありました。

 北大に行くべく、良く勉強して、夏休み前の模試では合格ラインに入っていました。

 その時、予備校の講師に愛知教育大学の先生がいまして、大学で少林寺拳法同好会があるからと勧められ、これを習ったのです。

 そして、少林寺拳法の中に整体法というのがありました。その整体法に興味を持ち、習ってくるとそれを母親にやっていたのです。「手で人に触れる」という感性があったのですね。私はがっちりした体でもなかったから、武術が強くならずとも、「これを身に付けておくといいな」と思っていました。

 そのような時、父親に送られて来ていた整体協会の『月刊全生』を目にしたのです。読んで「これだッ!」と思いました。それは、思想に感動したのです。

 直後に、父親が通っている名古屋の先生の所へ行き、整体指導を受け、師野口晴哉の本を買ったりしました。そして、しばらくして「こっちに行こう」と思ったのです。

これが「野口整体との出会い」というものでした。

 しかし、受験に対して若干迷うところもあり、せっかく勉強してきたから、医学部に行って必要な知識を勉強すると良いのかなという気持ちになって勉強を続けたのですが、そうなるともう身が入りませんでした。

 11 進み得る方向において観る

 師野口晴哉が亡くなった時、私は28歳でしたが、熱海に24歳で来て、師が亡くなるまでの間はがんがん仕事をしていました。

 師の「荒削りだが、いい」という言葉も間接的に頂いて励んでいました。

 ご自身亡き後、私の性質からして協会に残れないのは、師は解っておられました(時が経つほどに、私は自身を理解することで、このように思うことができました)。

 また、前年の秋には四段位を頂くことができたのです。プロと認められる四段位を、入門九年目で戴く、しかも27歳でというのは、稀なことだったでしょう。

 初等講座を一年やりますとほぼ準段位がもらえます。そして二年目中等講座で初段、その後高等に進んで二段、三段と進み、三段は整体コンサルタント(註)試験を受ける資格があるのです。

 コンサルタントを当分やってその後が四段位、それ以前は整体技術者、四段位からは整体指導者と呼ぶのです。27歳でそれが戴けたのです。

(註)コンサルタント とは コンサルティングを(問題点を把握し、対策を提案)する人。整体コンサルタントとは、人の体が「整う」ため、その「身心」の問題点を把握し、整体指導法を行う人。

  それは、1975年10月の京都高等講習会のことです。三人試験官がいまして、女性が一人、男性が二人。男性二人は反対で、三人が一対二でもめたようです。そして女性の臼井栄子先生という方が「じゃあ野口先生に決めて頂きましょう!」と持って行かれたら、師が「僕も良いと思う」と言われたそうです。

臼井先生は、師の最後の地方講習会(箱根 1976年5月)で、最高位の九段位を授与された唯一の方です。

 師は私の素質に対して、そして、その素質から出た少しばかりの光に対して、励ましの意味で四段位を出されたものと思っています。「進み得る方向において観る」ということでしょう。

 しかしこの二人には、当時の私にそれを観る力はなかったと思います。特に一人の方は、師亡き後、協会に残らない私への不満を臼井先生にぶつけたそうです。「なぜ、あれに四段位を出したんですか!」と。そしたら臼井先生が「あんたがあの世に行ったら、野口先生に聞いてみなさいよ」と切り返されたそうです。

 

 師亡き後、自分を守り育てていく。特に整体指導者として、私が自身を育てるには、外界からの刺激を受けないで「一人になり切る」、熱海の山の中に庵を結んで一人になり切るしかありませんでした。逆境に育った私の弱さであり、強さでもあります。

単純に「独りが良かった」とも言えます。これにより自分を癒し、「純粋培養することができた」と思うのです。これが、私が協会に残らなかった理由だと思います。

 私は母親のお腹にいた時から、人に充分守られて生き、育ってきたという時がありませんでした。そして、特に最近解ってきたことで、一番の理由だと思うのは、やはり特殊な感性があるのです。ものの感じ方が一般的ではないと思います。この感性が、仕事上の「型」となってきたのが、『病むことは力』に込めた内容であり、そして当会会報へと続いて行きました。

 師ほどの「徳を以ってはじめて理解し得るもの」というとなんですが…、他の人間にはほとんど理解されてきていないのです。