第三章 自分を知ることから始まるユング心理学と野口整体 一1
今日から第三章に入ります。
野口晴哉先生が、野口整体と宗教性について述べている文章がありますので、最初に紹介したいと思います(『月刊全生』)。
全生という理念で天心の生活を展開していこうとする。これは宗教というより哲学的なものなのでありますが、そういう場面が他人から見てそういうように思われない点は無いとは言えない。
…あえて宗教を嫌っているのではないのですが、宗教のおきては何か、神様を祭ることになっている。…人々の理性に訴えて、そうでない限りは人をめくらにしてしまうようなことにもなりかねない。そういうことで敢えて(整体協会は)宗教の道を選ばなかったということで、そういう面が多分にある。
いや、そういう面が全く無くなってしまって科学的なものだけになってしまったところに今の医術が事務のようになってきた理由があると思うのです。
対人関係にはやはり愛情とか人間の哲学とか、人生観とかいうものがみな反映して、そうして温かく結ばれ合うので、そういうものの無い、哲学のない物質的なものだけ立ったならば、やはり人間を救う技術としては不適当だと思うのです。
一 私と「ユング心理学」との出会い
1 「病気は心の訴えである」という思想に始まる
師野口晴哉が亡くなって(1976年没)、四十年を過ぎました。この間に、野口整体(師野口晴哉の思想と行法)は多くの人々による様々な解釈を経て、健康や育児、教育などの分野で活用されてきました。
その中で、私は一直弟子として整体指導を継続してきましたが、「潜在意識」を重視し、「整体を保つ」ための生き方を指導することに専念してきました。それは、私が青春時代に抱いた「どう生きればいいのか」という問いを、今も追い続けているようなものでもあります。
序章一(6・7・8)にも書きましたが、私は高校進学時、受験進学校に入学したのです。そこでの、とりわけ競争を煽る教育指導や、物事を深く突き詰めない技術的な受験勉強には全くなじめなかったのです。
人生で大切な思春期にこのような高校生活でしたから、将来を展望する心が、「自分はどう生きればいいのか」という悩みの中に私を閉じ込めていました。答えの見えない悩みの中に埋もれているかのようでした(心の内で人間教育を求めていたが、この時代私を取り巻く環境においては、全く得られなかった)。
勉強に身が入らないまま、三年生の冬には体育の時間、柔道で左肘を脱臼し、翌春には風邪が長引いた後、副鼻腔炎になることがありました。
それで浪人することになり、四月からは予備校に通い心機一転したのですが、予備校生になってからも、高校時代はなぜあんなに苦しかったのか(中学では好きだった勉強になぜ意欲を失ってしまったのか?)と、悩んでいました。これは、向かう先(将来への展望)がない故であったと思います。
私は野口整体を学び初めの頃、「自発的である」ことこそが、生命が輝く原理であり、「非自発的な生活をしていると病気になる」ということが分かってきました。自分の高校時代が暗かったのは、非自発的生活に原因があったことを悟ったのです。
師野口晴哉の人間観・身心観とは、次のようなものです。
指導する者は故障探しではいけない。人間を物体扱いしてはいけない。その裏にある人間を掴まえて、その人間に適う方向に誘導していく(これが教育)ということが大事で、生理的な背きの中には、自由の抑え、性の抑え、成長の抑え、自発性の抑え、要求の抑え、こういったものの反動が多いのです。病気の中には、それに不平、不足、つまり満足の抑えといったものをひっくるめて、体の病気として返ってきているものが意外に多いのです。それは自分の体の自分への背きなのです。そういう方向を掴まえ出す努力、道筋が判らないだけなのです。
だから操法がヒントになって、心が開けるように、あるいは体の背きがなくなるように誘導すればいいのです。椎骨の何番が毀れていたというより、この人の自由は、この人の自発性は、どういう処で抑えられているのかといった眼で、見つける方向に進んで頂きたいのです。
そして講義で、「病・心・身体」というものについての師の教えに触れ、「病気は心(潜在意識)の訴えである」という原理を知るようになったとき、「これは革命だ!」と思うようになったのです。
科学万能主義の時代に常識であった物質的な(モノとしてのみ人間を扱う)西洋医学に対して、師野口晴哉の「整体」を裏付けている思想は、革命的なものと捉えたのです(このことが、後に「天風哲学」と「ユング心理学」という思想につながる)。
思想とは、哲学の世界で「考えることによって得られた、体系的にまとまっている意識の内容」を言い、「その人の生き方、社会的行動などに一貫して流れている、基本的な物の見方、考え方」なのです。
哲学者の森 有正氏(1911~1976年)は、師野口晴哉を「日本に初めて真の思想家が現れた」、と評されています。