野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三章 自分を知ることから始まるユング心理学と野口整体 二4

 野口晴哉先生には、二歳の時に鍼灸師の子どものいないおじ夫婦に養子に出され、その後夫婦に子どもができたために帰された、という生い立ちがあります。おじ夫婦には一人子として可愛がられ、映画や音楽にも触れることができたとのことですが、戻った生家は兄弟が多く、両親にも疎まれ気味の孤立した存在であったそうです。

 ユングも両親が別居した時期があったり、自身も登校拒否をしていた時があるなど、天真爛漫の幸せな生い立ちというわけではありませんでした。そして、金井先生もそうだったのです。 

「自分を治していった体験」が啓く世界― 相手の潜在意識の理解は自分の心から

  私が野口整体の道に入ったのは、「自分を知るため」という潜在的欲求(自分についての問題意識)があったのです。

野口晴哉の講義内容を通じて、「自分のことを考えようとした」(『病むことは力』第五章二17~8頁)のであり、そうしてきたことによって私は、現在では、野口整体の大本にある「禅・老荘思想」といった東洋宗教(=瞑想により内界を探求するもの)に相対化して、近代科学(=理性により外界を探求するもの)を捉えることができるようにまでなったのです。 

この逆に、本書(及び上・下巻や禅文化シリーズ)の読者で、東洋宗教文化をよく知らない人(敗戦後の教育と、その社会で育ったほとんどの人々)は、近代科学に相対化し、東洋宗教を理解することになります。

河合氏は、臨床家として自分の体験を克服したフロイトユングの心理学について次のように述べています(『日本人という病』)。 

近代科学とは方法が違う心理学

フロイトはもともと、ものすごいノイローゼ、神経症がありました。自分の神経症を治すために、いろいろ自分の分析を始めたわけです。そして、自分の病気を治すために、「自分はこういう夢を見たから、こういうところがあるんじゃないか」とか、「人間は意識していなくても、こういう気持ちがあるんじゃないか」と考え抜いて、それを何とか体系化して、精神分析学を作ってきたのです。

ユングの方は、普通の医者が診たら精神病と思うような症状で、幻聴や幻覚がある、ものすごい体験をしているのです。その体験を克服し、自分で自分を治していく間に、自分で分析をしているわけです。自分で自分を治していったその体験を、なんとか普遍的な言葉に置き換えて、そしてユングの心理学を作り上げていった。 

  野口昭子夫人は、師野口晴哉の幼き頃のエピソードを、『朴歯の下駄』(『回想の野口晴哉』)で次のように綴っています。

背景 一

「家が貧乏だから、クレヨンを買うお金も、遠足に行く金もないと言われた。だから、クレヨンは教室で隣の子から、遠慮しながら借りた。」

私が不思議に思ったのは、家が貧乏なら、他の兄弟も同じはずである。それなのに他の兄弟たちは遠足にも行くし、クレヨンもある。まして、長男の兄さんなどは、剣舞を習っているのだ。この兄さんは十六歳で盲腸炎で亡くなるが、私は剣舞をしている可愛い写真を見たことがある。

そうなると、七年ぶりで突然、他家から帰って来た子が、家族の中でどのような待遇を受けたか、まして感受性の鋭く繊細な少年にとっては、想像を絶するものがあったに相違ない。ある時ふっと思い出したように、ポツンと言ったことがある。

「僕は九つの時、自殺しようと思ったことがある」

その時、一体どんなことがあったのだろうか。先生は、何も語らなかった、ただある時、こんな話をしたことがある。

「学校から帰ると、近所に時計の紐を結ぶ内職をしに行った。そして金が貯まると、本を買った。それを読んでいると、兄貴が取り上げてしまうんだ、“それは僕のだ”と抗議しようとしても、僕は小さなかすれ声しか出ない(註)。結局、声の大きいものの方が勝ちで、親父やおふくろに怒鳴られるのは僕だった。兄のものをとるんじゃない!って……」

小さな声しか出ないということは、どんなに口惜しいことだったろう。

この宿命を、孤独な少年は、どう耐え、どう乗り越えていったのだろうか。

(註)師野口晴哉は、幼い頃ジフテリアに罹ったことでかすれ声だった。

  これは、師野口晴哉のエピソードの一つですが、二歳で養子に出され九歳で実家に戻された師は、フロイトユングと同じく、自分の宿命をのり超えて行ったのです。