野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第四章 野口整体とユング心理学― 心を「流れ」と捉えるという共通点 三 6

感情が流れると意識(自我)と無意識(自己・魂)がつながる

― 感情表現を通じて他者に理解されることの意味

  河合隼雄氏は「感情」とたましいとのつながりについて、次のように述べています(『ユング心理療法』)。 

個を超えて

…近代になって人間の理知的側面が強調されるあまり、人間は感情をおさえて理知的にものごとを判断することを高く評価しすぎるようになった。あるいは、感情を表すにしても、対人関係を円滑にすることに重きをおきすぎて、いわゆる否定的感情は抑圧することになりがちであった。

 このため、人間の心の深層にいたろうとするものは、必ずこの押しこまれた感情の貯留地帯につきあたることになる。人間の自我をその深みにつなぐ、つなぎ目のところに感情のかたまりがあり、それが凝固していればしているだけ、自我はたましいと切れた存在となってしまう。

 このような事情から、心理療法においては人間の感情ということが非常に大切となった。もっとも、このような非理性的存在と関わりあうことによって、心理療法がこれまでの「学問」の範疇に入りがたくなるということが生じてきたが、それにもかかわらず、われわれ臨床家は、感情を正面から取り上げざるを得ないのである。

 ただ、感情の問題は浅薄に理解され、感情の発散が心理療法の目的であるかのごとく思われたりしているが、感情の発散と表現とは、大いに異なっている。

 感情の発散は文字通り発散するだけである。このことも心理的負担を一時的に軽減するので少しは意味があるが、本来的に治療的価値は薄い。やはり、それが感情表現となる時に治療的になるのである。そのことを狙うからこそ、治療的な関係と、日常会話とは異なってくる。

 感情の発散現象は、日常的経験の中でいろいろと生じている。感情を表現するためには、その人の自我が主体的にかかわることが必要であり、その表現が他者に理解されることが望ましい。

 感情の表現を通じて、自我が他者の理解を得ようとしているとき、それはとりも直さず、自らの心の深層へのつながりを模索していることになる。

  もとより私は、「体が整う」とは、意識が明瞭になることと思い指導を行ってきました。この明瞭さを妨げているのが、意識と無意識の間に滞った「感情」だと観察し、意識(自我)と無意識(自己・魂)との統合が図られるよう対話(体話・指導)をしてきたのです。

 Mさんの指導例のように「病症(腰痛)を経過する」時、指導者と共に、病症がなぜ起きたのかを振り返ることは、これを、自我が理解することで、切れていた「自我(意識)と身体(無意識)の統合性」を取り戻すことになるのです。

 整体とは「自然(じねん)」な状態であり、自ずと「自然治癒力」が発揮され、不快情動が素早く症状や痛みとなって出るのです(体の弾力が良いと、異常がすぐに現われ、不快情動を留めておかない)。

 師野口晴哉は、症状について次のように述べています(『月刊全生 』増刊号)。

癌にしても、肝硬変にしても、脳溢血にしても、

皆その間際まで自覚症状がないが、

それを、倒れる直前まで健康だったと言えるのだろうか。

  整体とは、病症がないことではなく、「異常がすぐに現れ、それを経過することで、身心を立て直すことができる」という状態です。これが「弾力がある」身体なのです。