野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部 教養編(理論・思想)科学を相対化し「禅文化としての野口整体」を思想的に理解する

 今回から第一部に入ります。今日の内容は第一部の序で、金井先生が個人指導の場で捉えた現代の私たちの問題、それが科学的な見方とどのような関連があるかについて述べ、そこから一部の主題をまとめています。

 現代では、社会的に求められる自我のあり方として「客観性」が重要視されるようになり、社会的適応のため、主観的感情を排した教育が行われるようになりました。その影響で、親子の間でも感情を交えた心のやり取り、対話が難しくなってきています。

  家族間で笑いあったり、楽しさを共有したりということはあっても、悲しみややり場のない怒り、辛さを訴えたり、分かち合い、見守ってもらうという経験がない人が増えていて、そういうものは一人で何とかするしかない、人に見せてはいけない、と思うようになったのです。

 それが私たちの健康と生き方にどのような影響を与えているのかは、まだ真剣に取りざたされているとは言えない状況にありますが、金井先生はここに注目していました。

 それでは今回の内容に入ります。 

「科学の知」は心身分離(二元論)「禅の智」は身心一如(一元論)― 金井流整体指導の「心身医学」的解説

  現代の科学的教育によって発達した「理性」に偏った意識は、自我と身体に分裂をもたらしています。

 その理由は、現代人は「感情を理性で抑制できる(感情は合理的に処理可能)」と思い込んでおり、日常的に(裡で)体験する「陰性感情」を鬱滞させることで、後にこの感情エネルギーに自我が支配されるからです。

 科学は理性を至上とし、感情を価値のないものとしたことで、自我から感情が排除されたのです。

 こうして発達したのが現代人の自我意識で、敗戦後の科学至上主義教育では、感情をどのように扱うか、育てるかが考えられていないからです。敗戦によって喪失した、日本の伝統的な「道」は、身体性を高めることで感情制御を身に付けるものであったのです。

  私たちの体と心(感情)は密接な関係にあり、喜びや楽しさ、あるいは不安や恐怖といった「喜怒哀楽」の感情は、身体的変化を起こす情動と呼ばれます。

 問題となるのは、意識下となった(=潜在意識化した)不快情動による交感神経の緊張持続です。

 明瞭に自覚できる不快情動としては、怒ると顔が真っ赤になったり、恐怖に襲われ不安になると心臓がドキドキし声が上ずったりすることです。

 これが、真に一過性であれば良いのですが、発生時に自覚はあったが潜在意識化した、または(発生時)、意識しにくい不快情動は、後に、頭痛・肩凝り・息苦しさ・眠りが浅くなる・食べ過ぎなどの身体的不調として表れます。

 整体指導で観察されるのは、このような(不快情動体験による身心の)硬張りで、指導の焦点となります(「偏り疲労」(身体の歪み)として観察される)。

 身体に硬張りが生じた時、自然治癒力である「恒常性維持機能(ホメオスタシス)」が活発にはたらくかどうかは、身体の弾力にかかっているのです。そして、それは身体感覚の敏・鈍そのものである、と言うことができます。

(異常感に敏感であり、さらには、調和感に敏感であることが「整体」を保つ上で望ましい)

 身体感覚が鈍いことは情動に気づくことも鈍く、それで感情が滞り易く、身心が刷新されないのです(負のエネルギー持続による「恒常性維持機能」の停滞)。

 異常感に敏感であり、さらには、調和感に敏感であることが「整体を保つ」上で望ましい状態です。

 人は、主に人間関係によって、絶えず喜怒哀楽の感情が発生するものですが、不快情動が内向し積み重なると、その負のエネルギーによって自分自身(心と体)を内攻する(=内部を冒す)ことになるのです(強い不快情動によって、運動調整機能が低下し、思わぬ怪我をすることがある。この状態は錐体外路系(註)運動が本来的に機能していない)。

(註)錐体外路系 大脳皮質から脊髄に向って下行する運動経路のうち、錐体路以外のものをいう。骨格筋の緊張と運動を反射的、不随意的に支配する働きをし、随意運動を支配する錐体路と協調して働く。錐体外路性運動系とも言う。

 自覚できない不快情動が累積し、精神面に現れるのが抑うつ症で、身体面に現れるのが心身症です。この状態が、最初に述べた自我と身体の分裂「意識と無意識の不統合」です。

 現代人の理性に偏った意識というあり方が、様々な「心(感情)に起因する病症」が増加している背景にあるのです(このため、現代では心身医学(深層心理学と生理学の結合)の発達が必要となり、心療内科が普及した)。

「科学の知」は「心身分離(心身二元論)」、「禅の智」は「身心一如(身心一元論)」と相対的に理解する(註)、こうした思想的理解(教養)を通じて活元運動を行ずることは、真の禅的な修養となり、さらなる身体性の向上によって、自己の「感情制御」をも可能ならしめるものです(活元運動の実践については第二部修養編にて詳述)。

 このような身心に至る(導く)ことが、私が提唱する「禅文化としての野口整体」です。

(註)「心身分離(二元論)」の心とは理性であり、「身心一如(一元論)」

の心とは身体性という相違がある。第三章三 1・3で詳述。

  第一部は、石川光男氏の説く東西の「世界観」の相違と、湯浅泰雄氏の説く東西の「心身論」の相違を基盤として書き表したものです。

 その論拠は、両氏が説く東西の相違は、私が良く理解できるものであり、その上、私が考える「野口整体と西洋医学」の相違を良く表現しているからに他なりません。

 二氏の思想による「近代科学文明と東洋宗教文化」の相違を以って、西洋医学の「思想と方法」と、野口整体の「思想と行法」を考えるのが第一部第一~三章です。

このような二氏の思想に力を得て、第一部の内容を表すことができました。

石川光男(1933年~)

北海道札幌市生まれ。理学博士。専門分野は生物物理学。1959年、北海道大学大学院 理学研究科 修士課程修了。同年、国際基督教大学 理学科 物理学教室 助手。1974年、同大学 理学科教授。1987年、同大学大学院 理学研究科教授兼任。

1999年、退職、国際基督教大学名誉教授。

湯浅泰雄(1925年~2005年)

福岡県福岡市生まれ。哲学者、文学博士。身体論、気の思想、超心理学ユング心理学等に関心を持った。東京大学文学部倫理学科、同経済学部卒業。経済学修士の学位を持ち、山梨大学教授・大阪大学教授・筑波大学教授・桜美林大学教授(同大名誉教授)を歴任。2005年没。