第五章 野口整体と心身医学の共通点 二2補足 心身一体と魂の不滅はなぜ矛盾するのか
ライサー氏の心身観にある宗教的背景
ライサー氏の「心身一体の考えに徹することは、不死への望みを断ち切ることになる」というところはちょっと分かりにくく、生前、金井先生も理解しきれないところがあって、このように思うのはなぜだろう?と何度か話題になりました。
生きている時、心身一体だとすれば、肉体の死後魂は消滅するという考えには、キリスト以外の人間が、死後どうなるのかについてのキリスト教的見解が影響しているということですが、これはユングの「近代以後、心は理性となった」という言葉がヒントになるかと思います。
参考として、中世ドイツの修道女で自然療法家でもあった、聖ヒルデガルトの心身観を紹介します。ここでの「魂」という言葉を、「理性」に置き換えて読むと分かるように思います。
体が要求するいかなる仕事も、魂は体の中で実行する。体が欲し、魂が働く。魂は体の欲求を実行するので、体よりも魂の方が力に満ちているということができる。もし人間が肉体をもたなければ、魂はその力の源泉をもつことがない。こうして魂は、神の作品である人間の存在全体を経巡り、人間を突き動かし得ているのである。この人間という作品は、魂抜きにはありえないものであり、もし魂がなければ、体はその肉と血をもって動くこともないであろう。
魂は肉体なしに生きることができても、肉体は魂なしに生きることはできない。最後の審判の日ののち、魂は自分の衣を求め、魂の望みに応じてその衣を定めるであろう。このように、人間は魂と肉体という二つの本性において在る。それは肉と血が本性においてまったく異なったものであっても、肉は血なしにありえないのと同じである。魂は肉体なしにはけっしてすまされない。それは神がその御業を措いてはありえないのと同じである。
日本人も魂の存在は認めていて、伝統的に「人は死に臨むが一大事」とし、その時の心の在り方を通じその人の本質を観るという捉え方があります。神道系の死生観には、それが死後の霊魂のレベルや行き先の尊卑も左右するという考え方もありました。魂の存在と心身一体とは何ら矛盾はないのです。
それは魂=理性ではなく、東洋の魂とは気の身体であり、潜在意識と生命のことを意味するからなのだと思います。心の範囲が広く、層が深いのです。
行を通じて生きている時にそのような深く、広い心となった人と、表層的な心だけの人では、死というものの受け入れ方、死という体験の質・意味が異なるというのが東洋の死生観で、これはそういう心になってみないとわからないことです。
現在は日本人であっても、伝統的な死生観を知らない人も多く、欧米的な死の恐れや、無に帰することに不安をつよく感じる人も多いのではないでしょうか。
文責 近藤佐和子