野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第六章 生き方を啓く整体指導― 感情の発達と人間的成長一 1

一 整体となるために必要な感情の発達― 内界との調和を目指す個人指導

  今回から、第六章に入ります。健康と情動の停滞(ストレス)の関係についてこれまで述べてきましたが、この章では、心の成長はどういうことか、どうすれば心は発達するのか?そして個人指導の意味とは何か?が主題です。

 心というのは感情、そして潜在意識ということですが、私は心が成長するとはどういうことかを学んだことが、金井先生の弟子になったで得た最大の学びでした。

 多くの人は、問題を抱えた時はどうすればいいのかと手段を講じることを頭で考え、解決策を教えてくれる人、便宜を図ってくれる人を有難いと思うことが多いものです。

また、誰かに対する怒りや嫉妬、対立に苦しんだ時や、あきらめや失望で落ち込んだ時は、訴えを聞き、自分を受容して慰めを与えてくれる人、自分の正当性を認めてくれる人、共感し味方になってくれる人を有難いと思う人が多いことでしょう。

 ただ、短期的にはそれで乗り切ることができるかもしれませんが、それを繰り返すだけで成長に結びつくかどうかは疑問です。

成長とは、自分で考え、決断し、行動すること、そして自分で心の落ち着きを取り戻すことができるようになること、自分の感覚に対する信頼、確かな自己存在感を持つこと。こうした心の力を高めていくことだからです。

 もちろん完成はなく、何度も失敗は繰り返します。そのたびに反省して、もう一度立ちあがってやり直す。こうした強さを育てていくことも成長です。

 心理療法的な整体指導というと、訴えを聞いて解決策や慰めを与えることだと思う人が意外と多いのですが、金井先生の個人指導では、このような「成長」を目的としていました。

 では、内容に入ります。 

不快情動による滞りと身心不統一― 整体とは「主体性を発揮する」生き方

  大まかな言い方ですが、野口整体の観方で「整体・不整体」という差異は、身心の「統一・不統一」という差異と言えます。そして、身心が不統一になる理由は、と考えていくと「不快情動(註)」が要因となるのです。

個人指導(活元運動を含む)を通じて身心に統一感が戻って来るのは、情動による滞りが流れるからです(これが調心)。

(註)不快情動 強い陰性感情(恐怖・不安・怒り・敵意・悲しみ・

焦り・恨み・失望・罪悪感など)が内にはたらいたことによる身体的反応。

  整体、つまり統一体とは何か。それは、コンプレックスに支配されない、主体性を発揮することができる身心です。

 私は、整体とは「体がない感じ」とまで師野口晴哉が表現したのは、道元の身心脱落の境であり、身心が高度な統一状態にあることだと思います。

 私の個人指導で〔身体〕(=身心)を観察することは、先ず意識下に抑圧された感情エネルギーが「身心」に停滞している状態を捉えることになります(その具体的な心的内容は本人の気付きを通して知る。私の観察での「状態」とは形象的?というもの)。

 例えばある指導時、通い始めて一年半程になる、中年の男性(教師)が「ここ数日、朝普段のように起きられず、続けている就寝前の活元運動の動きが悪いです。」と訴えていました。

 話を進めていくと、教え子の訃報を聞き通夜に行った時からだと、理由(原因)が分かったのです。その内容は、亡くなる数日前見たその子の様子が、通夜で掲げられた元気だった頃の写真と余りにも違っていたことに衝撃を受けたことで、彼の「潜在意識の時計(カイロス)」が止まっていたのです。

 これは、このような情動による感情のエネルギーが潜在意識化し、自我の主体性を損なっている様と表現することができます(「朝定時に起きよう」という意志の主体性が奪われ、意志が生活・行動に反映できない状態となっている)。

 このように、私が身体の表情(〔身体〕の観察)を通じて捉えたものを、相手に問いかけ「隠れた心」を意識化していくことで、整体指導を進めます(これが心療整体)。

 臨床心理(心療)による指導とは、被指導者が感情を自覚しそれを表現することを通じて、指導者(受け取る人)に理解されること(=情動から感情へと意識化し分化する)で、内界が調和する(意識が心の深みとつながる=心が調う)状態へと導くものです。

 私が指導する整体への道筋とは、「情動と身体」の関係を通じて自身を理解し、心身の持ち主として、内界との調和を目指す道なのです(身体感覚の向上を通じて整体へと進む)。

 意識下の心・潜在意識化した陰性感情(怒りや不安、悲しみや恐怖、吃驚など)による感情エネルギーは、意識から分離したままでは、自我の主体性を奪うはたらきとなっているからです。

 先の中年男性の例は決して大きなコンプレックスではありませんが、事の大小によらず、情動と自我の主体性という問題なのです。コンプレックスは心身の病に表れるだけでなく、人生の上で、また社会的にさまざまな形となって表れ、人生の明暗を分けると言っても過言ではありません。