終章 瞑想法(東洋)と心理療法(西洋) ―「生命の原理」を理解し、無意識の世界を啓く 三3
今回の内容は、「潜在意識がはたらく意識状態」についてです。
潜在意識というと、歪みや滞りなどの問題のことを思いやすいのですが、野口晴哉先生は、自然な状態の潜在意識とは、自分の生命を守り、自分の種族を繁栄させようとする生命のはたらきであり、生きることを完全に遂行しようとする方向性を持つものだと述べています。(それが不自然になってしまうことが問題なのです。)
個人指導では、このような自然な潜在意識が表面化した意識状態で観察し、この潜在意識に相手が感応するのです。それはぼんやりした意識ではなく、高度な集注による、覚醒した意識状態です。それでは今回の内容に入ります。
明瞭な瞑想的意識で全体を感得する
潜在意識がはたらくには、現在意識のはたらきを弱めなければなりません。これは受け手の相手も同様で、相手が、現在意識(頭)が忙しく働いたままでは、「気の感応」が図られない(=相手の、無意識の目的論的機能の発現が不可となる)のです。
それで、指導を受ける人の瞑想的な「身心」のあり方が大切なのです(これが副題に「瞑想法と心理療法」の言葉を付した理由)。
野口整体の世界は、愉気法を基盤としており、気のはたらきは潜在意識(無意識)との関係が大きいからです。
「気」は、身心の訓練を通じて感じられるようになるはたらきです。訓練によって心が日常の意識状態から変容する時(瞑想時=潜在意識がはたらく時)に自覚され、認識されてくるものです。それと共に、「気のはたらき」が身体の生理的側面において変化をもたらすのです。
それで、愉気法や整体操法によって体が整うのです(行う側、受け手両者とも、変容が不十分だと身体的変化が不十分(=気の感応が悪い)となる)。
野口整体の観察「気で気を観る」ということは、瞑想的(身体的)な意識で相手の身体に表れている「潜在意識を観る」ことであり、この、自身においての「心身一如」と相手との「自他一如」による観方は、両者の瞑想的な意識を深めることによって可能となるのです。
このような瞑想的意識による観察眼は、東洋的な宗教・哲学・世界観によって育まれるもので、その「心」とは、通常の理性や情動ばかりではなく、それらを超えた深い意識を含んでいるのです。
禅においては、理性的思考や感情の動きを止めた特殊な意識状態の実現を目指すものです。こうして体得された「心身一如」から「自他一如」によって見出されるのが、これまで、上巻・中巻の指導例で表現した〔身体〕です。
こうした瞑想的意識は、磨かれることで「絶対主観(普遍性のある主観)」に至ることが肝要です。
師野口晴哉は、「整体指導者において必要なことは、全体を感得する勘である」と述べ、勘を鋭くするため「心を澄ませる」ことの重要性を、次のように述べています(『野口晴哉著作全集第二巻』治療師は解剖生理の学をもつともつと修むべしとの声、余りに高いので)。
四
勘はどうして鋭くし得るかと云へば、心を澄ませることに尽きる。張つた心も、冴えた心も勘の基ではない。
心静かにして、悲しければ泣き、可笑しければ笑ふ。単純に見、単純に処して心に複雑な煩ひを持たぬことがなによりだ。つきつめて云へば、人間といふものは着込んだつて、飾つたつて、鍍金(めっき)したつて、見栄張つたつて、身につくものではない。
誰だつて着物の下は裸さ、鍍金したところで鍍金だ。自分のものだけが自分のものだ。その一挙一投足もその人すべてだ。
気どつたり、見栄張つたりしないで、率直に生くることこそ「澄んだ心」に到達する唯一の道だ。腹式呼吸とか精神集注とかも必要な修養法に相違ないが、その人の生活からつけ加へられた本来でないものを取除いて、雑念を少なくすることが何よりだ。
(金井)「澄んだ心」において、潜在意識の明瞭なはたらきが発揮されるのです。