野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部 第四章 科学の知・禅の智一 1

1 科学の心と野口整体の心 両者の意識の相違を知る

②東洋の身体行が目指した「意識の変容」

 近代合理主義哲学は体を機械と考え、人間としての『心』とは理性であるとしました。理性とは、意識のはたらきの「思考」というもので、「感覚や感情」という体に即した意識のはたらき(=感性)は『心』には含まれていません。

 理性は身体の影響を受けずに、外界からの入力情報を認識・判断することができると考えられたのです(理性は、身体から切り離された、また、自然から飛び出している機能)。

 ここには、儒教や仏教の「身体性」の考え方はなく、科学的な意識「理性」とは、東洋宗教の身体行(修行)を通じた「正心」とは違うものなのです。

 河合隼雄氏は、西洋が鍛えてきた理性の意識による科学的な現実認識と、東洋が求めた身体性の意識による現実認識との相違について、次のように述べています(『河合隼雄著作集11 宗教と科学』)。 

東洋への志向

ニュートンデカルト的世界観は、男性原理を極端に推しすすめ、主体と客体、物質と精神などを明確に区別し、そのような区別された事象を研究することによって、自然科学を生み出してきた。

 これに対して、東洋の知は、そのような区別をあくまで明確にせず、全体としての認識を重視する。しかし、ここで大切なことは、そのような女性原理に基づく知においては、意識の在り方が大いに関係してくるのであり、言うなれば、(西洋の近代自我を男性の意識と特徴づけるとして)、「女性の意識」とでも名づけるべき意識状態の、修練による達成が必要なのである。

 そして、この修練においては何らかの意味での身体的な修行と結びついていることを特徴としている。そもそも「女性の意識」においては、男性の意識のように心と体が完全に分離されていないので、身体の在り方と意識の状態は不即不離の関係にあり、身体を通じて意識の在り方を変えてゆくところが重要なのである。

 坐禅や瞑想、ヨガなどの修練を経て鍛えられた意識は、西洋近代の自我とは異なる現実認知をすることになる。そこに認識されるものは、西洋の自我が認識の対象外として捨て去ったもの、つまり、一般に霊とか魂など(野口整体では潜在意識・無意識)と呼ばれてきた存在である。

   このように、東洋的世界観とは「身体を通じて意識の在り方を高度ならしめる」ものです。それは、例えば禅定(仏教で心身ともに動揺することがなくなった一定の状態)によって得た禅定力(心を乱されない力)を以って、主に人間に関わることを認識・判断する意識の在り方です。

野口整体の整体指導法は、愉気法を基本とする整体操法を手段とし、脊髄行気法・合掌行気法を訓練することで行なわれる)

 師野口晴哉が提唱した「整体」、即ち「感受性を高度ならしむる」ことは、東洋宗教が求めて来た「正体・正心」の現代的な顕れなのです。